五月病の話 | dragonzoのブログ

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今まで体験してきた不思議な現象を書こうかと。

ゴールデンウィーク明けに会社や学校へ行きたくなくなる。無理矢理行こうとすると体調が悪化する。そんな症状の総称を五月病と呼ぶ。

私も最後のサラリーマン生活はそれでやめた。

バブルが弾ける前夜、呑み屋の知り合いに紹介され、春先、ある会社へ面接に行った。中途採用、大卒以下は採用しない会社だと聞いていた。私は高卒だったんだが、紹介されたので行ってみた。試験は作文だけだと言うので、当時まだでかかったワープロをカートに縛り付けて出かけた。試験は社長室で。社長と幹部5、6名に囲まれて、おもむろにワープロを出し、作文をその場で書いた。幹部が腕組みしながら怖そうな顔でにらみつける。あからさまにこいつ大丈夫かと言う吹き出しが見えてくる。あーこりゃだめなんだろうなぁと思っていたが、社長の鶴の一声で採用となった。

バブルが弾ける直前だったから、人手はいくらあっても足りない。しかも入社してから分かったのがだが、この1年間で20人ぐらい辞めている。かなりハードな仕事だろう。

何かサークルの延長みたいなノリの会社で、朝礼で今日何をやるのか発表させられる。そして午後6時に終礼というのがありそこで今日やったことの成果を発表させられる。残業は基本なし。しかしそんな事は無い。みんな一旦帰ったふりをする。六本木のクラブで、馬鹿踊りして、深夜に戻ってきて徹夜で仕事することがしばしばあった。

私の仕事はコピーライター。原稿書きに追われた。大体深夜に戻ってくるのは、私とデザイナーだ。

創業者の社長は、呉服販売の個人店をグループ化して経営をコンサルティングすると言うシステムを築き上げた。販売計画、店舗運営、店舗改装などを提案すると、いろいろな広告ツールが発生する。それを主に請け負うと言うシステムだ。バブル期になるとこの手法を宝飾業界に持ち込んだ。異業種参入も盛んな時期だったので、これからの宝飾業界と称していろいろなセミナーもやっていた。講師も各業界の錚々たるメンバーだった。1万円で扇子作って手招きしても、タクシー止まらない。超、金あまり時代だったからね。みんな投資先に躍起になっていたからセミナーも大盛況。

私は、呉服、宝飾を担当した後、大手の会社案内、入社案内のライティングの担当になり、外部発注のデザイナーと二人三脚で何本か作り上げた。どこの社も大体丸投げ。社長の挨拶文は業界誌のインタビュー記事渡されて、これをまとめてくれみたいな。会社理念まで適当になんて言われるから3つのCとか適当に作ってオーケーをもらう。そんな有様。

出来上がった会社案内をある社長に見せたら喜んで、これで地方行って人買ってきますわ!と、言われたときには、さすがに背筋がぞっとした。こんな会社案内、入社案内、まに受けて希望に夢膨らませて、上京してくる若者がいるかと思うと、心が痛んだ。

そしてゴールデンウィークがやってきた。13連休だった。何もやる気がしなくなって、13日間寝たきり。出社日になっても起き上がれなくなった。毎日会社から電話がかかってくるが出る事はなかった。1週間ぐらいして、当時、よく工事現場の張り紙でヘルメットかぶった工事現場のおじさんが頭を下げて工事中ご迷惑をかけますみたいなやつ。

このポスターにすいません。辞めさせていただきますと書き込んでファックスで送った。

これが私の最後のサラリーマン生活だった。

今だと退職代行業みたいなもんがあるらしいが、なかなか自分から言うのは厳しいよね。

今日はこの辺で。