占領下日本の話1 | dragonzoのブログ

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今まで体験してきた不思議な現象を書こうかと。

日本降伏直後、東神奈川に米軍が上陸してきた。私の父は人に紹介され、これから設営される米軍基地の最初の従業員となる。米軍からの直接雇用だ。フェンスを立てるとこから始まった。赤いジャンパーを支給され、拳銃を2丁持たされた。トラック二台で横浜駅前まで、当時、職にあぶれた人たちに声をかけ、車に乗せられるだけ乗せて建設現場へ向かう。作業員からは赤ジャンパーの兄ちゃんと呼ばれ、米兵からはジャックとあだ名がつけられた。

上陸してきた部隊は硫黄島の激戦から生き残ったテキサスの部隊だった。米兵が作業員の昼飯はどうする?と聞いてきたので1人パン一斤で良いだろうと言うと、持ち帰りはできないぞ。ここでそんなに食べるのかと米兵が聞いた。終戦直後のご時世、みんな空腹だからペロリと食べた。残すものは誰もいなかったとか。作業員たちが履いている地下足袋を見て米兵が嫌な顔をしたそうだ。ジャパニーズジャングルブーツと呼んでいた。この音のしないブーツで、硫黄島では何人も戦友が首を切られて死んだそうだ。

基地が出来上がってからも苦労の連続だったとか。英語がまるで通じない。それなりに英語を勉強してきたつもりだったが、テキサス訛り英語が理解できない。たまにウェストポイント上がりの上官が訪れると彼の英語は理解できる。うなずいて聞いているとテキサスの連中がジャックお前はあいつの言葉はわかるのに、俺たちの言葉はわからないのかと冷やかされたそうだ。

米軍にはPXと呼ばれる日本語では酒保と訳されるスーパーみたいなものがあった。そこで物資は潤沢に手に入れられる。下宿先のおばちゃんによく下着を買ってきてくれと言われたので買っていくと外人サイズだから大きくてぶかぶか。子供サイズのやつを買ってきてくれと頼まれる。大量に買って行くから米兵にお前は変態かと言われたそうだ。

私の父はロシア語科を出ていた。別に共産主義者ではなく、もともと小説家を志していた。ラジオドラマなども放送されたこともあるが、なかなかそれでは食えない。そこで好きだったロシア文学の翻訳家にでもなれればと思っていたそうだ。

終戦後、ロシア語科にはシベリアに抑留された人たちが、ロシア語が懐かしくて大勢入学してきたそうだ。父の友人になった人の中には、後の共産党の幹部になる人もいたり、警察に入り、その幹部を追いかけるものもいた。

その同級生2人が父の下宿によく訪れたそうだ。敵対する2人だから一緒に来る事はなかった。何故か鉢合わせしない。共産党の友達が米軍の仕事など辞めてしまえとオルグしながら、PXの缶詰や酒を呑む。お前が今呑み喰いしているものはアメリカ帝国主義の喰い物だぞとからかっていたそうだ。当時、その共産党員は新潟から密航船に乗りウラジオストック経由でモスクワまで行っていたそうだ。別の日に警察に入った同級生がやってきて共産党員のことを根掘り葉掘り聞く。あつは最近来ているか? 

同級生同士が敵対する関係になってしまった。これも戦争の実態だと私が子供頃、父が酔うと言っていた。

基地司令官の奥さんが月1度、横浜に買い物に行く。父はその通訳として同行していた。買い物が済むといつもお礼で洋酒をプレゼントされたそうだ。それを日本の行きつけの安酒屋に持っていくと、1月ただで呑ませてもらえお釣りももらえたそうだ。

まだまだこの話は続くのだが、今日はこの辺で。

その後、父は証券マンになるのだが、その話はギャンブル依存症の話に書いているので、興味があったら見てください。