朽ち果てた僕は心地良い浮遊感を感じながら彼女の隣で横になり、窓ガラスを眺めながら過去の事を思い出した。フラッシュバックするかのごとく25歳の出来事が脳裏に蘇り脳細胞が働き始めた。
当時25歳の僕は就職もせずダラダラとチャランポランな日常を送っていた。
しかしそれはそれで楽しい思い出でもあり、同時に今となっては情けない思い出になっている。
特に精を出して取り組んだのはナンパであった。
ハッキリ言うとナンパというのは負け組のゲームであり、若者だけの特権的な活動とも言える。
間違いなく年寄りが行う活動ではないが、世の中には達人がいて50になっても現役のナンパ師がいるものである。
僕の最初のナンパデビューは16歳であり年上の大学生のお姉さんであった。
近くの駅で見つけ、恐る恐る後ろから声をかけるものの驚かれてしまい、慌てて謝るといった始末になり散々であったが、ナンパというのは最初の声がけをしてしまえば、後はスラスラと物書きの如く上手く行ったりするのだ。
そんなこんなで根拠のない自信をつけ、高校の制服を着て当時あった都内のディスコの近くで徘徊していた。なぜならそこら辺にはディスコ遊びが目的ではない女性が居たりするからという理由で、当時の僕は心を狩猟犬のようなイメージを作り、近くの場所で獲物を待つかの如く沈黙していた。
しかしながら、そんな昔の事を思い出すも、直ぐに現実が顔を出し今の世界の表層を映し出すのだ。
それは悪魔が顔を出すのと同じであった。
色欲の誘惑に負け、世の中から弾き出され社会性を失い全てを駄目にする人も居れば、巧妙に画策し、女遊びを展開する言わば遊び上手な人も世の中には居るのだ。
しかし、私はその前者でもなければ後者でもない存在であり、中、高、大の学生生活では至って地味な存在であり、大学のサークルではキャンプ部という、これまた地味極まりない所に所属していたが、その場所に顔を出したのは、せいぜい2〜3回程度である。
そんなツマラナイ学生生活から社会人になり、スクスクと物を知らず世を知らずの生き方をしながら、僅かながらの知識を蓄え、そして役に立たないその知識を利用しながら夜のバーとか、オシャレな洋風な飲み屋へ行き、女子が居そうな場所へ繰り出し声をかけていた。
声掛けに大切なことは1番に言うと、物怖じしない事だ。
そして謙虚に行くこと。
それからとにかく優しく語りかけるようにする事。
そして、相手の髪の分け方や重心の位置、目の動きがどのような動きをしているか?等を観察したりと、相手の心の隙を狙いながら、ピンポイントな言葉を出すことを意識していた。
それは今でも無意識にやっていることで、人との関係性を築くのに少しだけだが役に立っている。
すべてが完璧に思い通りなるなんてあり得ないし、そうなったら人生なんてものは味気ないものになるだろうし、エゴイスティックな性格となり破滅の道に向かうのではなかろうか?
そんな事をベッドで寝ながら思っている。
彼女は隣りにいる。
寝息をたてながら、ムニャムニャしており、無垢な子供みたいである。
その子供のような体つきは男心を射止めるバランスの良い肉体美であり、そして会社のお偉いさんとSEXをするのだ。
私は部屋を軽く掃除をしトイレも丹念に綺麗な状態にしながら、インスタントコーヒーを淹れ、それを飲んだ。
そして彼女の部屋を出て行き、駅の改札に入り、ホームへ行きながら音楽を聴くためにイヤホンを耳に入れた。
音楽はキング・クリムゾンのエピタフを選んだが、暗いので直ぐに違うのにした。
結局、ソニー・ロリンズのセント・トーマスを選んだ。
朝七時のセント・トーマスは中々の雰囲気を醸し出してくれた。
電車の中には下りの中央特快高尾行きで、人はそんなに多くなく、目の前に女子高生2人とサラリーマン風の方が4人、そして男子学生が楽しそうにグラビアアイドルの写真を眺めていた。
人生なんてものは案外味気ないものだ。
だから人は楽しみを求めたり刺激を求めたりするのだろう。
何故なら、人の敵は「虚無感」や「絶望感」だからだ。
それを避けるためにそうしているのだろう。
とにかく今はそう思っているのが、私の心の世界である。
続く。