こんにちは!
いつだって猫がお手本♬
ひろちゃんのあるがままライフへようこそ!
このブログの目的はこちら
私のブログは、ノンデュアリティ的な記事も多いですが、
実質、ノンデュアリティは卒業し、探求も終わっています。
でも、ノンデュアリティで学んだことで、大事にしているものはいくつかあるので、
それを簡単にまとめたのが、こちら。
ノンデュアリティ系の記事は、
この記事を踏まえた上で、読んでいただくと、
さらに分かりやすいいのではないかと思いますので、
よろしかったらどこかで一度、読んでみてください♬
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今日は2023年8月28日のFacebook記事です。
記事の中に書いている、「世界で起きること全てに意味はない」ということについて
少し補足すると、
この世界で起きることについて、
もし意味を1つずつきちんと考えて行ったら、
意味がありすぎて、到底ニンゲンの頭で理解するのは不可能なぐらい
意味があるんだと思います。
バタフライ・イフェクトという、あれですよね?
アフリカで蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起こるっていう・・・。
起きることの意味が辿れなくもないけれど、
それはニンゲンの身勝手な価値観で、色をつけた程度の意味にしかならず、
そういうものも全て取っ払って、もし本当に1つ1つガチで辿って行ったら、
宇宙規模で、人知を遙かに超えていくから、
そうすると、起きることに意味があるって言っても、ないって言っても同じぐらい入り組んでいる
・・・そういうことなんだと思うんです。
ただ、全てのことに意味はないっていう頭で、
眼の前で起きていることを1つ1つ見ていると、
こうして世界中で、何の目的もなく、全てが一斉に起きているなんて、
なんてエキサイティングで、贅沢なことなんだろう!と、妙に感動したりするのです。
もう9月になってしまいましたが、
先月の誕生日の記念に書きました。
必要な人に届きますように。
【1つだけ、私が成し遂げたと言えるもの】
私は、これまで、色んなことをやって来た方だと思うんだけれども、
以前から、あまり達成感というか、
「やった」という実感が湧かないところがありました。
(それは今もあまり変わらず)
「自分」はいないっていうことに気付いて、
「自分」がいないなら、「やった感」がなくても、
しょうがないなぁって思っていたんだけれども、
それにしても、「人生で、何かを成し遂げたっていうのがないよねぇ」なんて、
時々思うことがありました。
でも、この間、ふと気付いたんです。
あぁ、私にも、1つだけ「これはやり遂げた」って思うことが、あるじゃんって
それは、「生きる意味」が分かったということ
物心ついた時から、私は
「人は何故生きるのか」みたいな疑問を抱えていました。
「人は何故生きるか」というと聞こえは良いけど、
そこには「何故生きなくてはいけないのか」という重さがあって、
死にたいとまでは考えずとも
そんな思いを引きずりながら生きるのもまた、
決してラクなものではありませんでした
とにかく、いつも頭のどこかに、その問いが巣食っていて
一時は「明日生きる意味が欲しいのよ」と思うほど苦しんだこともあったし、
そうまで行かなくてもやっぱり、気の遠くなるほど長いこと、
半ば死にもの狂いで本を読み
死にもの狂いで文をつづり
死にもの狂いで英会話を教え
死にもの狂いで絵を描き
死にもの狂いで歌ってきたのだと思う。
それは、「自分」がいないということに気付いたあともまだ、残っていて、
でもあるとき、「全てが本当に、ただ起きているだけなのよ」って誰かが言った、
その一言をきっかけに、
この限りなく疑いに近い
「生きる意味」という問いが一気に吹っ飛んだんです。
なぁ~んだ
つまり「起きているだけ」っていうことは、
全てのことは、本当に、文字通り、起きているだけなんだと。
全てはただ起こるべくして起きるっていうより
ただ「起きる」ってことが純粋に目的で、
それ以上の意味もそれ以下の意味もないんだと。
Everything just happens in order to happen.ということなんだと。
そして、そうだったら、
成長も進化も目覚めもカンケーなく、
人生の意味も
生きる目的も
スピリチュアルで言う使命も
何もないんじゃないかというところまで
まるでキツネにでもつままれたような気分で
でも、一気にズドーーーーンと、ハラの底まで落ちていったのでした。
人生の意味をずっと探してきたはずだったのに、
意味はないというところに、オチがあったなんて
そりゃあ、いくら探したって見つかるはずないワケで
それに気付いた時、
呆れるあまり、笑いさえこみ上げてきた。
人生は喜劇だというのを聞いたことがあったけど、
これこそ、宇宙最大のジョークなんだわって。
だから、生きる意味についても、
生きることにも理由なんかなくて、
あえて言うなら、生きるっていう、
そのこと自体が理由なわけで
生きているんだから、生きれば良い、以上
生きることに理由なんかいらないんですよ
何故か、そのことに、痛く納得してしまったのでした
これは、究極の話でね、
別に実生活では、人生の意味や、使命を感じるのだったら、それで良いんだと思います。
上に書いたようなことに気付けば、むしろ、
その人の人生に対する充実感も底上げされることでしょう
問題は、私のように、「生きているだけで、十分なんだ」っていう感覚がないままに
自分には存在する価値がないんじゃないかという思いから、
人生の意味や使命を探す人も多くて、
それだと、どんなに求めても探しても、苦しいだけなんじゃないかと思うんです。
まぁ、
人はなぜ生きるのかなんて、考えなくても、
楽しく生きている人はたくさんいるし、
その答えが見つかったからといって、
誰の役に立つワケでもなく、
人に自慢出来るようなことでもありません。
でも、かと言ってやっぱり、
これは改めて考えたら、答えが出ない人も多い問いだというのも確かなことで、
別段人に自慢する機会もないだろうけど
でも、これだけは、自分で大事にしても良いのかなと思ったんです。
全てのことに意味はないって気付いたのは、一昨年のことなのに
それが私がこの生涯で一番欲しかった答えだったんだって気付いたのは、
本当に最近で
それでも、この人生の折り返し地点(ということに、しておきましょうか)で、
それに気付いたのが、何だかうれしく、
ささやかながら、この誕生日に、自分の一里塚にすることにしました。
ノンデュアリティの人に言わせれば、
こんなこともみんな、思考の作り出したストーリーに過ぎないから、
意味はないのでしょうが、
良いんですよ、ニンゲンの脳みそは、意味を与えてやれば満足するんですから
それで、機嫌よく前に進めるのなら、
私はこのことを、覚えておいてあげようと思います
この日、3回目のハッピ・バースデー、ダンス。
おふぇい、ご苦労!