1964年(昭和39年)神戸市中央区京町25-26番地に移転し、モダンな外観で世界初となる灯台を設置したホテル建物(4代目)を新築し、1995年の阪神淡路大震災まで、この4代目の建物が使用された。 この灯台を設置したのは、当時、ホテルの取締役社長をしていた日本郵船の重役だった安部正夫氏、安部譲二さんの父親である。
🔹私の父は西洋料理人で当時、神戸オリエンタルホテルに勤めていた。昭和天皇をはじめとする皇族、当時、皇太子だった現在の上皇、石原裕次郎、阪神タイガースの選手など多くの方々に料理を提供した。天皇からは十六菊花紋入りの煙草を賜った。
昭和天皇の料理を作るにあたっては、身元調査、身体検査、調理器具の常時、殺菌処理、ホテルからの外出禁止など大変だった。神戸牛は現在も営業中の神戸大丸前の森谷商店から提供され、前日には元町でお披露目のパレードが行われた。料理は、最高の食材の最高の部位だけを少量ずつ提供された。神戸牛や明石の鯛など。
🔸1969年12月1日に、株式会社オリエンタルホテル 取締役社長であった安部譲二さんの父 安部正夫氏から13年間皆勤を表彰されている。
🔸当時、安部譲二さんは日航のパーサーをしており、神戸のジェームズ山の自宅や京町のオリエンタルホテルにもたびたび訪れていた。下記の写真は生前の安部譲二さんから使用許可を頂いたもの。
🔸垂水区のジェームス山辺りの青山台や塩屋は高級住宅街となっている。
🔸ホテルの屋上にあった灯台は、安部譲二さんの父で当時、ホテルの社長だった安部正夫さんが設置したもの。現在は神戸メリケンパークオリエンタルホテルの屋上に移転されている。
🔸1962年4月20日のディナーメニュー
●1964(昭和39年)大伯母 58歳のとき神戸新聞社の古山桂子さんからインタビューを受ける。
●神戸オリエンタルホテルを定年退職後も請われて数年間、岡山市内のホテルに勤めていた。
幼少の頃からうちへ来るたびに可愛がってくれた。岡山で一緒に食事したりもした。
私がアメリカへ留学へ行く前に、入院し、神戸の病院へお見舞いに行ったのが会うことができた最後となった。見舞いに行った時、看護婦さんに、私がアメリカへ留学しに行くんだと聞かれてもないのに嬉しそうに言っていたのを今でも覚えている。
昭和の開戦前から戦時中、戦後と動乱の時代を生の情報が行き交うオリエンタルホテルの電話交換手として必死に働いた。立場上、知ってはいけない機密情報も多く入ってきただろう。
生涯を通して、無遅刻、病欠、早退なし。神戸空襲の最中も電車が止まっていたところは歩いて出勤した。
まだまだ女性の社会的地位が低かった大正時代に香川の片田舎から神戸と言う都会へ単身出ていき何のコネクションもないオリエンタルホテルで人柄の良さと真面目さだけを頼りに生き抜き神戸で人生を終えた。
明治時代の日本人の気骨を持ち、普段は着物を着ていた。いつも背筋をピンっと伸ばした優しい大伯母だった。
◼️電話交換手とは?
自動交換機の登場以前は、共同加入回線を介して電話をかける以外では、交換手の補助が不可欠だった。
発呼者はまず、電話局の交換手と話をする。発呼者は交換手に、呼び出したい相手先を伝え、交換手はその要求に従い、パッチパネルの構造を持つ、手動の電話交換台により、接続用ケーブル両端の電話プラグを、交換機にある発呼者側・着信側それぞれのジャックに差し込むことによって回線を接続し、互いの通話を可能にした。
電話交換手は一般的に、非常に強力なコミュニケーション能力が必要とされた。
交換手の遠距離ダイヤル通話と顧客の長距離直接通話(DDD)回線が登場する前は、電話交換手が遠方の電話局にいる相手と協力して長距離電話(いわゆる市外通話)を完了していた。
通話は完全管理の状態で、交換手はプライベートな会話を聞くことができる立場だった。
◼️1964年(昭和39年)12月29日(火曜日)の神戸新聞のインタビュー記事(58歳時)
聞き手 : 古山桂子 記者