私の家は明治以来、ある村にある寺、浄土宗なのですが、そこの住持を
しています。私も仏教大学を出てから。本山や他のお寺に修行に
行っていましたが、15年ほど前に父の後をついでこのお寺の
住職になりました。その父は12年ほど前に膵臓がんで亡くなったんですが、
亡くなる数日前、私が見舞いに行って病院のベッド横に座っていたとき、
それまで昏睡していた父が不意に目を開け、ふっと笑ったような表情を
すると、「おお、息子か、お前以外に見舞いのものは来ておるか?」と
聞きました。私が首を降ると、父は「そうか」と言い、続けて
「もう私もいよいよいかんようだ」と言いました。私は「父さん、弱気に
ならないでよ。だいぶ顔色がいいじゃないか」と答えましたが、
それが気休めだということは父もわかっているようでした。

父は苦しい息の下、続けて「ちょうどよかった。お前に話しておきたい
ことがある」  「なんですか?」  「これは私が直接見聞きしたことでは
なく、私も先代の住職、つまりお前のおじいさんから聞いたことだ。
代々子孫に伝えることになっているらしい。ここで目を覚ましたのは
ちょうどよかった。お前に伝えないままで逝ってしまうところだった」
それを聞いて、私は少し緊張しました。うちの寺、あるいは仏教に
かかわる大事なことを父が言おうとしているのだと思ったんです。
「猿神さあ、という話なんだ」  「猿神?」  「お前も寺の裏山には
猿がたくさんいることを知っておるだろう。その猿から神のように
あつかわれている者がいて、猿神と呼ばれているらしい。聞いたことがあるか?」
私は首を振りました。寺という立場上、村の古老や有力者の知り合いはいますが、

猿神という言葉が酒席などで出たことはありません。父は続けて、
「ずいぶん古い話で、おそらく明治中期、あるいは御一新(明治維新)の直後の
ことかもしれん」  「そんな古いことをどうして?」  「だから寺に代々に
言い伝えられているのだよ」  「それで?」  「どこから話そうか、そうだな
その頃はまだ農地解放の前で、村には自作の百姓と小作とがおった。
その小作の中でも、まあ中ぐらいの百姓に田村家というものがおったそうだ。
そこには齢とったばあさんがいてな、これがボケてしまった」  「ははあ」
「今でこそ認知症は70代、80代の病気だが、そのばあさんはまだ60
を少し出たばかりでな」  「それで?」  「まあ当時は平均寿命がまだ
50代だったろうからな。そのばあさん、頭はボケているが体はまだ
達者でな、今で言う徘徊をするようになった。田村の家ではこれは困った。

その頃の小作は、真っ黒になって働き詰めだったからな。田仕事が終わっても、
藁ないやら何やら、雑仕事はたくさんある。その田村の奥さんは、よく
ばあさんがいなくなった。来てはいないかと近所の家を訪ねて回ったり
してたそうだ」  「で?」  「そのばあさんが不意にいなくなった。どこにも
見つからない。これは裏山に迷い込んだのではないかということで、
青年団で山がりもしたそうだが、どこにも見つかなかった」  「で?」
「それでな、村には山仕事をしている家もあった。たいがいは小作なんだが、
それ以外にも山に入って炭焼きや薪拾いをする。散弾で野兎などもとらえる.
その者たちが山の中で奇妙なものを見たという」  「どんな?」
「大きな猿だよ。黒い毛で、人間ほどの体。しかし何よりも気味が悪いのは、
人間の顔をしていたことだそうだ。しかもその猿のようなものは、

田村のばあさんの顔をしていて、山の斜面にうずくまっていたそうだ。
猟師たちが驚いて、威嚇の鉄砲を打つと、そのものはのっそりと立ち上がり、
腰をかがめて立ち上がり、のそのそと沢のほうに降りていったそうだ。
そしてその後には、数十匹の猿が群れをなしてついていったと言う。
このことを聞いて村の者は驚いた。たしかにその村には昔から、猿神様の
話は伝わっていたが、鎌倉時代などの古いことで、おとぎ話のような
ものだった。だから、何かの見間違いだろうと言ったんだが、見たのは
一人だけではない。複数のものが見ているし、間違いなく田村のばあさんの
顔だったと言う。それを聞いて村の中には、山の中に迷い込んだ田村の
ばあさんが猿神に化身したのではないかと言うものまでいた。たしかに
そう解釈でもしないかぎり説明のつかない話だ」  「でも、まさかそんなことが」

「結局、その猿神がばあさんのなれの果てなのかはわからんかった。ただ、
田村の家のものはその話を聞いて、怖そうに肩をすくめていたということだ」
「それだけですか?」  「いや、まだ、続きがある。ここからは嫌な話だ」
「どんな?」  「それから2日後の夜、山から猿の群れが降りてきた。
これは珍しいことで、猿は警戒心が強いから、滅多なことでは里には降りて
こない。それが集団で何十匹も田村家の地所に集まったらしい。で、何を
したと思う」  「わかりません」  「田村家の家から畑に続く道には、
粗末な作業小屋があった。農具などを入れておくものだな。で、猿たちは

いっせいにその小屋の木の壁にとりついて、板や屋根を引き剥がし始めたんだと。
キイキイ、キャアキャアやかましくて、その音は隣近所にも丸聞こえだったそうだ」
「で?」  「ようやっと夜が明けて、近所のものが小屋を見に行くと、すっかり

外板は剥がされてあり、屋根もおおかたがなくなっていて、柱と梁だけになって
おったそうだ。ただ、中のものは無事で、荒らされてはおらなかったが、奥のほうに 奇妙なものがあったそうだ」 「何です?」 「手製の木の檻のようなものだった

らしい。そして中には、山に迷い込んだはずの田村のばあさんが死んでたんだ。
上半身裸で、痩せこけ、肋骨が浮き出しており、手の爪ははがれ、髪も伸び放題
だったそうだ。まるで悪鬼のような様子だったらしい」  「それはどういう?」
「おそらく、田村の家では徘徊するばあさんを扱いかねて、座敷牢の粗末な
ものをつくって閉じ込めておいたのだろう。そこでばあさんは衰弱死した」
「じゃあ、猟師たちが山の中で見たものは?」  「おそらく閉じ込められていた
ばあさんの念が山へと飛んで、そういう姿になったのではないかと言う話になった」
「なるほど、そんなことがあるものですか」  「ああ、人の念というものは

あれで馬鹿にできないものだからな」  「で?」  「田村の家のものは
ばあさんの虐待ということで、駐在所に引っ張られたようだが、明治のことなので、
その後はどうなったかわからん。村の中には田村家の当主に同情するものが
いたという話だから、軽い処罰か、もしかしたらうやむやになったのかもしれん。
ただな、この話には嫌な続きがあるんだ」  「ここまででも十分嫌ですよ。
どんなことです」  「後でわかったことだが、その田村家では、当主がたびたび
猟師から猿の肉を買っていたらしい。猿の肉はふつうは食わないもんだ。だから
村の連中は、檻の中のばあさんに食わせていたのではないかと噂したそうだ」
「恐ろしいですね」  「まあな。だが、これは現代の老人問題にも通じる話だよ。
自分の親を老人施設に入れて、ろくに面会にもいかないものは多い。だからお前も

住職として、村の中で何が起きているか、しっかり目を開いてなくちゃならんぞ」