今回はこういうお題でいきます。キリスト教のお話ですが、これも
なかなか難しい論点を含んでいます。カトリックで説かれる
マリアの人物像と、『新約聖書』内のマリア像は少し違うんですよね。
まず、マリアとイエスの出会いですが、聖書の中ではさらっとしか
ふれられていません。それによれば、他の女たちとともに、
取り憑かれていた7つの悪霊をイエスに
追い出してもらったところから始まります。
そうしてイエスの弟子の一人となった。ただし12使徒の中には
含まれていません。カトリックの一部では、別の記述に出てくる、
「罪深い女」・・・この女はイエスの足を香油で洗い、
口づけをしていますが、これとマリアを同一視しています。
しかし、それを示す証拠は聖書の中には出てきていないんですね。
ですから、別人であるのかもしれません。ちなみに罪深い女の「罪」
とは、性的な罪であったと理解され、ここからマリアは娼婦で
あったとされます。しかしこれも、大きな根拠はないんですね。
聖書の記述をみるかぎり、マグダラのマリアと罪深い女は違う
人物と考えるのが自然です。さらに当時のイスラエルを考えると、
家父長制が強く、女性は〇〇の妻のマリアとか、〇〇の娘マリアと
書かれることが多いんですが、マグダラのマリアは違います。
マグダラは都市名であり、比較的裕福な地でした。そして
聖書には、マグダラのマリアがイエスやその弟子たちを経済的に
援助したとあります。ですから、比較的裕福な独立した人物であり、
ここからも娼婦であったということは否定される気がします。

また、聖書の中では、マグダラのマリアが、イエスの教えについて
議論している場面はほとんど出てきませんが、外典、とくに
グノーシス派の文書の中では、マグダラのマリアは、
誰よりもイエスの教えを理解していた、一行の中での霊的な指導者で
あったと書かれています。また、12使徒の一人であるペトロと
対立し、議論してる場面も描かれています。
こういうふうに、マグダラのマリア像は揺れており、カトリックと
プロテスタントの間でも、その理解は大きく異なっています。
まあ、よくわからないと言うしかないんです。

マグダラのマリアの大きな事績としては、十字架に張りつけに
されるイエスの処刑に立ち会って見守ったこと、また、
イエスの死からの復活に立ち会ったこととされています。
ここから、カトリックなどにおいては、マグダラのマリアは
携香女(死者にぬる香油を携えるもの)として
尊崇されているんです。聖人の一人なんですね。
ここまでのまとめ・ マグダラのマリアはイエスの弟子の一人、
イエス一行を経済的に援助した。 ・ カトリックの神学では、マリアは
罪深い女と同一視され、娼婦と考えられるようになったが、それには
大きな根拠はない。 ・ イエスの死から復活までを見守った。

最近、ダン・ブラウンの著作『ダヴィンチコード』と、その映画版では、
マグダラのマリアはイエスと結婚していて、子どもまでいたと
書かれていますが、聖書の記述にはそういったことはありません。
そもそも、マリアが何歳かもよくわかってないんです。ですから、
イエスよりもずっと年上であった可能性もあるんですよね。
これは創作上の設定と考えたほうがよさそうです。
だいたいこんなところですかね。たくさんのマグダラのマリアを描いた
宗教画がありますが、香油の壺を持った姿で、2人の天使とともに
描かれることが多いですね。では、今回はこのへんで。

