これ、一昨年に実際にあったことなんよ。俺はそんとき、まだ
30歳前で、ガスや下水などの配管専門の工務店で働いてたんだよ。
で、コロナの時期は会社の業績もよくなかったが、その年から仕事は
上向いてきて、暮れにはボーナスも出たんだよ。20万ちょっとだったけどな。
それでも、久々で嬉しかったし、そんときは若手の同僚が、俺を含めて
3人いたんだよ。俺は和田っていうんだけど、そいつらは斎藤と菊池って名前。
で、全員独身だったんで、正月休みにどっかに国内旅行しないかって
話になったんだよ。「えー、予約なんて取ってないだろ。今からじゃ、どこも
いっぱいだろ」 「まあ、有名観光地はそうだろうな。だが、おそらく
地方の穴場はそうでもないと思う」 「地方の穴場ねえ・・・どっか心あたりが
あるのか」 「ないことはない。俺の郷里は九州の〇〇県なんだけど、
そこの田舎、山間のほうに良吉温泉郷ってとこがあるんだよ。長い間見てないが、
たぶん今もやってるはずだ。そこに行ってみないか?」 「えー、田舎なんて
つまらんだろ。見るものもないし」 「まあ、そうだけど、湯質は硫黄泉で
よかったはずだ。今の温泉ってのは、観光に行って騒ぐんじゃなく、
隠れ家のような場所のほうが流行ってるんだよ。癒しが求められてるんだ」
「うーん、なるほどな。じゃあ、部屋があるかどうか、連絡してみろよ」
「ああ」こういう話になって、ネットでホームページを探したが、そんなのはなし。
しかし、地元の同級生に電話して連絡先はわかった。で、かけてみたら
部屋はあったんだよ。そして料金も2食付きでひとり1万とちょっと。
まあ、酒代は別だけどな。それを2人に話して行ってみることにしたんだよ。
新幹線からローカル線を乗り継いでの2泊3日。酒は持ち込み可ってことなので、
ウイスキーなんかを何本か買っていく。で、正月前、27日から30日の
予定で行ったんだよ。道中は長かったが、昔とは違って、今はスマホとか
時間をつぶすものはいろいろある。で、ディーゼル車とバスにガタガタ
揺られて、着いたのは本当に時代に取り残されたような田舎だった。
まわりは山が多く、水田はほとんどない。そこは町だったが、主な産業は
柑橘類の栽培ということだった。温泉宿はあまり風格もない木造で、
ほとんど一軒宿に近かった。温泉街というものもなく、宿のまわりは
ずっと果樹園が続いていた。それでも、土産物屋は一軒だけあった。
つまり、温泉情緒というのはほとんどない。しかし、周辺はどこも
強い硫黄臭が漂っていて、なんとなく異界のような雰囲気もあった。
まあ、どうせ風呂に入って酒を飲むだけだし、これで十分だと思った。
宿は経営者の一家だけでやってるようで、手が足りないときには近所の
主婦が手伝いにきているようだった。着いてさっそく風呂に行った。風呂は
地下にあったが、露天風呂はなし。そのかわりに、洞穴風呂というのが
あるという話だった。どういうものか?と聞いたら、宿の先代の主人が
自らノミを使って岩盤を掘ったというものだった。それは危険じゃないかと
思ったが、ちゃんと業者の手が入っていて、鉄骨で支えてあるから
心配ないということだった。で、そこにも行ってみたが、まるで天然の洞窟。
そこに薄暗い照明がいくつかある。中は湯気が充満していて、すごい
硫黄臭。危険な気もしたが、カラカラと音が聞こえていて、換気扇が
あっるのだろうと思った。洞穴風呂の壁は黒い岩で、触ってみると
ヌルヌルしていた。湯はぬるめだったが、入った後、しばらく体が
ポカポカする、なかなかいい湯だった。ただし、洞穴はそんなに深くはなく、
せいぜいが6mほどだった。まあ、手掘りだしこんなもんだろう。
湯の深さは、へその少し上だたりまでだったが、場所によってはけっこう
深いところもあった。壁の入口近いところには、奇妙な顔の仏像の
ようなものが大きく岩盤に彫られてあり、聞いたところ、仏教の
不動明王だということだったが、そうは見えなかった。風呂から上がって、
山菜中心の素朴な夕食を食べると、もうやることがなくなった。地元のテレビは
NHKの他、チャンネルは2つしかなく、面白い番組もやってなかった。
夕食にビールはつけてもらっていたが、すぐになくなって、俺らは
茶碗で、持ってきたウイスキーを飲み始めた。残念ながら氷などは
ないということだったが、まあ飲めればいい。
で、6時すぎからずっと飲み続けた。話題は上司の悪口とか、そんな
他愛のない話で、11時ころには酒もなくなってしまった。もう寝ようぜと
いうことになり、そしたら菊池のやつが、もう一回風呂に行くと言い出した。
しかし俺と斎藤はベロンベロンになってたんでやめにしたんだ。
室内の風呂は11時までだが、洞穴風呂は1晩中やっているということ
だった。菊池自身も、もうベロベロだったが、タオルを持ってふらふら
出かけていった。俺と斎藤は布団に入り、斎藤はすぐに寝たようだったが、
俺はなんだか、妙に興奮した感じでなかなか寝つけなかった。
枕が変わったせいだろうか。それから小一時間ほど うつらうつらしていると、
風呂に行った菊池が戻ってきた。体中から硫黄の臭いがした。
で、部屋に入るなり、電灯をつけて、小声で「起きているか」と
聞いてきたんだ。斎藤はいびきをかいて寝ていたが、俺が「なんだよ」と
言うと、菊池は不可思議な話を始めた。「洞穴風呂に行ったんだよ。
お前も飯の前に行っただろ。あの番台のところには人はだれもいなかったが、
電気はついてたし、風呂には入れた。お湯は特にぬるくなるという
こともなく、おそらくあの洞穴のどっから湧き出してるんだろう。
で、あの入り口付近の仏像の前で、ずっと入ってたんだが、足元の
岩がつるんと滑って、頭から沈んでしまった。酔ってたせいかもしれない。、
で、すぐ立ち上がって頭を降ったら、前とは違うとこにいたんだよ」
「違うって・・・どこに?」 「洞窟内は洞窟内だよ。だけど、
水銀燈みたいな照明器具はなくなってて、そのかわりに壁全体が
緑色にテラテラ光ってた。あの仏像もどこにもない」 「頭とかぶつけたんじゃ
ないか」 「それはないよ。でな、しょうもなくお湯の中を歩き回っていると、
だんだん浅くなっていって、地上に出たんだ。といっても、そこも
洞穴の中で、ずっと奥まで続いてたんだよ」 「嘘だろ。奥は行き止まり
だったはずだ」 「でも、そうなんだよ。で、200mばかり歩くと、
今度は洞穴の中を川が流れてたんだ」 「それも温泉か?」 「いやそうじゃない。
水は冷たかったし、硫黄の臭いもしなかった。渓流の水のような感じ」 「で?」
それにそって歩いていくと、舟が着たんだよ。白木でできた小舟で、、
3人の人が乗ってた、男2人に女が1人。でな、髪型や服装がなんか変なんだよ。
服は木のツルを粗く編んだような感じで、なんというのかな、布を前後から
合わせて頭だけ出すような」 「ええと、貫頭衣か」 「たんぶんそれだ」
「そんな馬鹿な。それは夢だよ。お前はウイスキーのせいで温泉の中で眠って
たんだ」 「いやあ・・・そうは思えないけどなあ」 「で、どうなった?」
「舟のやつらは、俺の姿を見ると驚いたようで、舟から洞穴内に上がり、
俺を取り囲んだ。それで、男の一人が自分の指を口に含み、唾をたっぷりつけて
俺の額に押し付けたんだよ。うわっ、きたねえと思って目を閉じ、開いたら
もとの洞穴風呂にいたんだよ。お湯の中」 「ああ、そうだろ。絶対に夢だから」
「なあ、今から俺と一緒に確かめに行ってくれないか。一人じゃ怖いんだよ」
こう頼まれて、しぶしぶ起き出して洞穴風呂に向かった。やはり受付は
おらず、入ってみたら電気はついていて、仏像もそのまま。奥は行き止まりで、
よく見たら岩壁に祭壇のようなものが彫られていた。仏像の前で、湯に
潜ったりもしてみたが、変化は一切なし。「これで夢だと納得しただろ」
「うーん、変だなあ」この後、部屋に戻って寝た。朝まで起きなかった。
翌朝、斎藤とともに起きたが、寝床に菊池の姿はなかった、荷物はそのまま。
また洞穴風呂に行ったのか、そう思っていたが、いつまでも戻ってこない。
見に行くと、脱衣所には菊池が着てきたらしい浴衣と、タバコ、ライターが
あったが、菊池の姿は洞穴内にはなし。まさかと思って、湯に沈んでないかと
確かめたが、それもなかった。そしてそのまま行方不明になった。スマホも
財布も服も宿に残ってたから外に行けるはずはない。警察に連絡し、
付近も探してもらったが見つからない。一人で帰ったんだろうということになり、
俺らも大阪に戻ったが、菊池はいなかった。それから数日後、菊池が
見つかったという連絡が入った。九州の宿から20km近く離れた山の中の
渓流で、全裸で倒れて亡くなっていたということだった、死因は硫化水素中毒。
ちなみにその近くは、古代の、弥生時代の集落が見つかった跡ということだった。
