今回はこういうお題でいきます。日本にはいまいち馴染みがない、
イスラム教のお話です。イスラム教は中東に起こり、その提唱者は
ムハンマド(マホメット)であり、彼が神の啓示をうけて書かれたのが
クアルーン(コーラン)であるとされます。
神はアッラーで、それ以外の神は存在しない一神教です。できたのは、
世界3大宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)の中で最も新しく、
それぞれ500年ほどの成立年代の差があります。
まずはムハンマドについて話していきましょう。
正式な名前は、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ。くわしい生年は
わかりませんが、570年頃と考えられています。彼は商人である叔父に
育てられましたが、彼は定期的にヒラという名の山の洞窟に身を潜め、
偶像崇拝を禁じるため、ムハンマドの顔は描いてはいけない

数日間の祈りの夜を過ごしました。彼が40歳のとき、洞窟の中で
瞑想中に天使ジブリール(ガブリエル)の訪問を受け、
神からの最初の啓示を受けたと話しました。そしてその啓示の内容は
逐一コーランに記されました。膨大な内容です。
神の預言者であり、神の使者であることを宣言しましたが、信者は少なく、
マッカ(メッカ)の多神教徒からの敵意にさらされていました。
ムハンマドがアッラー以外の神々に対して罵倒を始め、周囲はムハンマドを
危険人物と見ました。実際、この後、戦いは起こります。
この戦いの経緯はひじょうに複雑なために、ここで詳細な記述は避けますが、
ムハンマドが不利と思われる場面もしばしばありました。しかし彼は、
神殿を訪れて多神教の神々の像を叩き壊すなどの行動を行っています。
イスラム寺院の装飾は聖句を図案化したもの 偶像禁止のため絵画はない

イスラム教の神は、キリスト教、ユダヤ教と同じ神であると考えられます。
では、ムハンマドはすでに隆盛していたキリスト教から影響を
受けたのか? もちろん、影響はあったっでしょう。ムハンマドは文盲で、
キリスト教関係の本を読んだとは考えられていませんが、
ヨーロッパに近い地域の人々からキリスト教の話は聞いたことがあったと
思われます。そのことが彼の無意識の中で熟成されていったと考えられます。
しかし、最も大きかったのは、アラブの多神教の否定です。
中東地方には多くの部族があり、それぞれ別の神を信仰していました。
それは部族のルーツにかかわる神だったんです。
そしてそのことが、中東全体がまとまらない大きな原因だとムハンマドは
考えていたと思うのです。そしてそれがあるとき、啓示として現れた。

純粋な宗教的熱情によるものであり、そうでなければ、彼のその後の
熱心な布教活動の説明はつきません。イスラム教の中心句は、「アッラーの
他に神はなく、ムハンマドは預言者なり」というものですが、これは、
中東地区がふたたび多神教に戻らないためのロック(拘束)なんですね。
ムハンマドは偶像崇拝を厳しく禁じ、ですからイスラムのモスクには
神の図像などはありません。飾り文字を装飾にしているくらいです。
それとともに、ムハンマドは自分への個人崇拝も禁じました。
あくまで「神の言葉を預かった預言者」として自分を位置づけたわけですね。
ですから、ムハンマドを描いた絵画(生誕の場面など)でも、
ムハンマドの顔には白いベールがかかっていて、風貌がわからない
ようになっています。個人崇拝を避けるためです。
イスラムの礼拝

こうして、イスラム世界がまた、多神教に戻ることがないための多数の
ロックがかけられたのです。イスラム教での、礼拝、断食、巡礼などの
戒律は、つねに唯一の神であるアッラーを思い起こすための行為として
設定されたのだろうと思います。多神教に戻らないため。
ということで、結果的に、イスラム教とは、中東地域をまとめるための
装置となったと言えるのではないかと思います。ただし、
イスラム教は他の宗教に対しても不寛容であり、
イスラムの巡礼

それが世界的にさまざまな問題を引き起こしているとも言えます。もともとは
中東地域が多世界からの侵略を受けないためといういう意味が
強かったのでしょうが、その強固な信念がさまざまな問題を引き起こして
いるのも事実なんです。
ということで、日本人にはあまり馴染みのないイスラム教の歴史について
ざっと振り返ってみました。さまざまなものに神がすむという日本の
多神教とはずいぶん異質ですが、理解するしかないのだと思います。
では、今回はこのへんで。
