今回はこういうお題でいきます。秀吉は晩年、二度に渡って
朝鮮出兵を行います。文禄の役(1592~1593年)と、
慶長の役(1597〜1598)ですね。
この戦いの詳細については、詳しい研究があるので今回はふれません。
秀吉は明を攻撃するという野望を抱き、朝鮮に協力を求めます。
しかし属国であった朝鮮がこれを拒否したため、まずは朝鮮に出兵。
いっぽう朝鮮は明軍と協力して抗戦、秀吉の軍は初めは連戦連勝で
あったものの、補給の難しさもあって苦戦するようになり、
やがて秀吉の死とともに撤退します。まあ、日本側の士気も
高くなかったので、これはいたしかたない。

秀吉の計画としては、朝鮮半島と明を征服した後、当時の
後陽成天皇を北京に移し、甥の秀次を関白とする。また、
日本には天皇がいなくなるので、皇太子を天皇にあてるとする
壮大なものでした。
これまでは、この戦争は老いた秀吉の妄想によるものとして語られる
ことが多かったんですが、だんだんに、そうではなかったのでは、
という意見が増えてきました。
その一つは、国内の軍事的なエネルギーを外国に向けて発散させる
ためのものだったのではないか、ということ。日本国内には戦国の
名残として多くの兵力があり、鉄砲の数も多かった。当時としては
世界で一番多かったのではないかという研究もあります。

また、戦国大名たちに恩賞を与えようとしても、もはや日本国内には
土地は残ってなかった。だから、外国に手を伸ばし。それを
切り与えて支配を強化する・・・まあ、こういう側面があったのは
否定できない気がしますね。
次に、秀吉は主君だった信長の計画の跡を継いで、そのまま実行しようと
したという説。たしかに信長は地球儀を宣教師から手に入れるなど、
世界の広大さをよく理解していました。そして世界征服の野望を描いた。
秀吉は信長の構想を踏襲することが多く、大阪に本拠地を移したのも
その一環です。ただ、信長としては、世界のことをよく知っていただけに、
武力での制圧を考えていたかは疑問があります。そうではなく、
貿易を進める考えだったような気がするんですが・・・

最近言われることが多くなったのは、ヨーロッパ諸国の侵略を防ぐため
だったという説です。たしかに当時の、スペインを主とする西欧は
アジアの国を次々と侵略していました。
また、日本人から戦争で負けた藩の民を奴隷として買い付けるなどの
こともしていましたし、キリスト教布教の問題も大きかった。
秀吉はこのことから、バテレン追放令などを出しています。
秀吉の計画はヨーロッパ諸国の野心を知り、それに対抗するために
東アジアに大帝国を築くとする壮大なものだったというわけです。
うーん、しかし、そこまで言えるものでしょうか?
自分には疑問がありますね。
戦国時代のバテレン

ともかく、この朝鮮出兵の影響は大きく、膨大な戦費で国力が疲弊し、
秀吉の死後に豊臣政権内の対立が深まり、関ヶ原の戦いの遠因となった
のは間違いないところだったと思います。
また、国外への影響も大きく、朝鮮は都市の破壊、人口減少など甚大な
被害を受け、また明も大きく国力を落として、後の滅亡の一因となりました。
結果的には東アジアの国すべてが疲弊したわけです。
だいたいこんなところですが、結局、秀吉は本心を漏らしてはいないので、
そこにどんな目的があったかよくわからないんですね。ともかく、
1598年、秀吉の死去により撤退命令が出されて戦争は終結しました。
では、今回はこのへんで。
