今回はこういうお題でいきます。キリスト教のお話です。さて、666は
『新約聖書』の最終章に出てきますね。これが記されている「ヨハネの
黙示録」は『新約聖書』の中で唯一、預言書的な性格を持つと言われます。
これには2つの解釈があります。まず1つ目、多くのキリスト教徒は、
黙示録を終末に起こる出来事の預言として読んでいます。たとえば、
世界の破滅が始まり、その中で救世主が現れて、最後の審判を行う。
これが宗教的には正統な解釈であるという見解がありますが、
いっぽう一部の学者や信者は、黙示録を象徴的な文学作品として捉えています。
つまり、ローマ帝国下で迫害されていた初期キリスト教徒への励ましの
メッセージであり、未来の出来事というよりも、霊的な真理や
倫理的な警告を象徴的に描いたものだという考え方です。
ローマ皇帝ネロ

では、このどちらの解釈が正しいのか? これはもちろん、はっきりとは
わかりません。それは読む人の立場や信仰、時代背景によって変わります。
未来の預言として読む人もいれば、象徴的な宗教的教訓として読む人もいるんです。
では、なぜローマ皇帝ネロが666とされるのか? これは
ゲマトリア(数秘術)という古代の文字と数字の対応関係を使った
のではないかと言われますね。
ネロ皇帝の名前「Nero Caesar(ネロ・カエサル)」をヘブライ語表記に変換し、
この文字列をヘブライ文字の数値に置き換えて合計すると、666になります。
ただし、666は間違いであり、本当は616になるのではないかという
説もあります。実際にそう書かれた写本も存在します。

また、キリスト教では6は悪魔の数字、7が神の数字と言われることが
あります。聖書では6は不完全な数字とされ、創世記では人間が6日目に
創造されたことにからきています。
いっぽう、7は、神が天地創造を6日で終え、7日目に休んだことから、
完成・安息・神聖さを象徴する数字とされます。聖書では「七つの封印」
「七つのラッパ」「七つの教会」など、重要な場面で7がくり返し登場します。
では、実際に聖書の記述を見てみましょう。「また、小さな者にも大きな者にも、
富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者に
その右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、
黙示録の4騎士

物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、
あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、
獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を
指している。そして、数字は666である」(ヨハネの黙示録13章16-18節)
こうしてみると、666の数字は、残虐にキリスト教路を迫害した
ネロ皇帝と考えても大きな矛盾はありません。そしてこのネロを
いずれ救世主が現れて打ち倒す。だから信者たちよ頑張れ・・・
さて、みなさんはどう思われますでしょうか? ヨハネの黙示録を扱った
作品としては、フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』が
よく知られています。ベトナム戦争を地獄とみて、

そこで主人公ウィラードがさまざまな試練の後に、狂った王国を築き上げた
カーツ大佐を打ち倒す。しかしそこに救いはなく、ただただ暗澹たる
気分にさせられる作品でした。
他には、1976年の「オーメン」がありますね。陰謀によって新生児が
すり替えられ、悪魔の子であるダミアンが、母親やメイド、牧師など
たくさんの人間を犠牲にしながら悪魔の王国を築こうとする物語でした。

あとは、クリント・イーストウッド監督の『ペイルライダー』も
そうですね。死んだはずのガンマンが、ヨハネの黙示録に出てくる
青ざめた馬に乗った騎士として登場します。
また、彼は牧師でもあり、死神のように悪を打ち倒して去っていきます。
終末的な裁きと救済の物語を象徴的に描いた作品なんですね。
では、今回はこのへんで。
黙示録の獣と救世主

