今回はこういうお題でいきます。妄想日本史と呼べるような内容です。
推古天皇は日本初の女帝で、その即位は593年。
先代は暗殺された崇峻天皇。皇太子に聖徳太子を置き、かたわらに
有力者である蘇我馬子がいました。(当時、皇太子は正式な職制ではない)

即位の状況は、群臣から何度も即位を促さえたものの辞退、ついに
3度目にして即位したんです。では、なぜ推古天皇は日本初の
女帝に成りえたのか?これは推測ですが、

まず周囲に有力な皇位継承者がいなかったこと。そのため「中継ぎ」
としての役割だったのではないかと考えられます。さらに、
蘇我馬子が崇峻天皇の暗殺事件の後に、わざわざ有力な男性天皇を
推すはずはないのではないかと思います。

 

聖徳太子(厩戸皇子)



実権は馬子と聖徳太子が握り、推古天皇はあくまでも傀儡だったのでは
ないでしょうか。ただ、推古天皇の後継が息子の竹田皇子だったのか、
聖徳太子のつもりだったのかははっきりとはわかりません。

推古天皇の治世にはかなりの事績が行われています。池や水路、道路の
工事が大規模に実施され、国としての体裁が整えられています。
これは遣隋使が派遣されたこととも無関係ではないと思います。

もっとも、実際に主導したのは聖徳太子だったかもしれません。
仏教の導入にも積極的で、法隆寺をつくらせたり、経典の講説を
行わせたりもしているんです。こうしてみると、歴代の中でも有能な
天皇だったのではないかと思います。

 

淡海三船



さて、推古天皇は当時からこう呼ばれていたわけではありません。
名前は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)で、漢風諡号の「推古」は、
奈良時代に淡海三船によって、他の天皇と一括してつけられたとされています。

で、このとき淡海三船は各天皇の事績を慎重に判断し、漢籍などにもよって
「推古」の二字を選びました。これは「古(いにしえ)を推はかる」という
意味だと考えます。では、「古」っていつのことでしょう。

ここからは大胆な推測ですが、推古以前の女性指導者と言えば、まず
考えられるのは神功皇后です。三韓征伐の事績で有名ですね。
三韓征伐が実際にあったかどうかはともかく、

 

神功皇后



半島方面に兵を出したりしていたのは確かのようです。そして『日本書紀』
では、神功皇后は魏志倭人伝にある卑弥呼になぞらえられているんです。
『日本書紀』では、わざわざ卑弥呼と神功皇后の活躍年代を合わせようと
恣意的に年代を120年ずらしている形跡が見られます。

では、神功皇后と卑弥呼の共通点を考えてみましょう。一つは男性の政権
実行者が近くにいました。神功皇后の場合は田道間守、そして卑弥呼の
場合は男弟、あるいは難升米。つまりヒメーヒコ制、女性の祭祀者と
男性の実権者との合同による政治の形が見て取れるんです。

『日本書紀』の編者はどうしても卑弥呼と神功皇后を重ねたかったと
考えられます。では、その意図は何か? これは『日本書紀』の大きな
編集方針である万世一系の強調にあると思います。

 

卑弥呼



万世一系ではなかった卑弥呼の記憶を、神功皇后という形に託してなんとか
日本の歴史に取り込みたかった・・・違うでしょうか?
ちなみに、推古天皇も聖徳太子、あるいは馬子という男性の実権者が
近くにいましたし、海外に使いを送ってもいます。

つまり、推古天皇ー神功皇后ー卑弥呼は意図的に重ねられているのだと
思います。では、なぜこのようなことをしたのか。それは継体天皇の
存在と関係があるのかなと思います。

 

継体天皇



継体天皇の漢風諡号は「体制を受け継ぐ」という意味で、大和外から来た
異物といえる天皇です。このときに王朝交代が起きていたとする
研究者もいます。しかし『日本書紀』としては万世一系を守りたい。
そこで継体天皇をはさんで推古天皇ー神功皇后ー卑弥呼

という形で系譜を縫い合わせた。

自分はそんなふうに考えたんですが、もとより証拠のあることではなく、
間違っている可能性も大いにあります。みなさんはどうお考えに
なるでしょうか? では、今回はこのへんで。