今回はこういうお題でいきます。まず、街道の整備を始めたのは
徳川家康です。関ケ原の戦いが終わってすぐの1601年、
このときはまだ参勤交代は始まっておらず、主に物資の輸送の
必要性から整備が進められました。
各宿場の数は5街道でみると、東海道は53宿、中山道は長いので
67宿、甲州街道は45宿、日光街道は21宿、奥州街道は27宿。
江戸後期頃の資料だと、各宿場の旅籠(はたご)の数は、
大きな宿場で250軒ほど、小さくて20軒、平均55軒ほどです。
宿場の自治組織は、まずはその宿の奉行。町年寄、町名主、この2役は
苗字帯刀が許されていました。ここからは旅籠について書いていきます。
旅籠には、間口5軒以上の大きなものから小さなものまで
いろいろあり、たいがいは2階屋で風呂もありました。

1泊2食付きが基本で、朝は一汁二菜、夜は一汁三菜で、これは
おかずが漬物程度だった江戸での食事を考えればごちそうです。
料金はだいたい200~300文程度(4~6000円)でしょうか。
旅籠の中には飯盛女を置くところが多く、これは給事の他に
遊女もやっていました。年季奉公で売られたりしたものも多く、
逃亡や心中などが問題になっていました。後に、飯盛女の数は
1つの旅籠につき2名までと決められました。
この他にも木賃宿があり、これは薪代だけを徴収し、旅客は自分で
材料を持参して煮炊きをして食事としました。大部屋に雑魚寝で、
行商人が多く利用し、宿賃は1200円ほどと格安でした。
旅籠の様子 まず足を洗う

この他にも、宿場には茶店や寺、商店、御札場などもありました。次は
本陣について書きます。本陣は大名の参勤交代のときに宿泊する場所で、
多くは町年寄や町名主の邸宅でした。そこに泊まれるのは30名ほどで、
他は各旅籠に分かれて宿泊しました。
また、参勤交代で大名が来ることが重なった場合は、脇本陣も利用
されました。脇本陣は本陣に次ぐ格式でしたが、
大名の利用がないときは一般客でも泊まれました。
本陣
宿場町に設置された公的な交通・物流管理施設です。幕府や大名の
公用の荷物や書状の中継・運搬を担っていました。
ですから、つねに飛脚や馬が用意されていました。その数も決められて
いましたが、足りなくなることもあり、そういうときは助郷と言って、
近隣の村に協力を要請する制度がありました。問屋場がなければ、
幕府の公用交通は成り立たず、公文書の流通が滞ることになります。
問屋場の様子

あとはそうですね。時代劇に描かれるように、博徒の親分がその宿場を
しきっていることがあり、役人も手を出しかねる場合もありました。
また、賭場が開かれている場合も。
宿場にはいろいろな人が流れ着き、その中には百姓をやめて逃げ出した
無宿人などもいました。また、犯罪のために江戸市中を追放になった者も。
あとは雲助ですね。疲れている旅人を無理に駕籠や馬に乗せ、
雲助?

高い料金を請求する無頼の者です。旅人が疲れているかどうかは足取りを
見れば分かるので、ここから「足元を見る」という語が
生まれたという説もあります。
このように宿場町は、たくさんの人の人生が交錯する場だったんです。
だいたいこんなところでしょうか。まだまだ書くこともありますが、
それはまたいつかの機会に。では、このへんで。

