今回はこういうお題でいきます。けっこう面倒な内容になるかと
思います。まず最初に登場してもらうのは、ジャン・カルヴァン。
16世紀の宗教改革を代表する神学者・牧師であり、
改革派教会(カルヴァン派)の創始者として知られています。
彼の思想と活動は、プロテスタント神学の形成に大きな影響を与え、
現代にまで続く宗教的・社会的潮流を生み出しました。
彼の思想は予定説と呼ばれます。
彼の予定説は「神が人間の救いと滅びをあらかじめ決定している」
という教義ですが、これはまた「二重予定説」とも呼ばれ、
以下の2つの側面を持ちます。
神はある人々をはじめから永遠の命に導くために選んでいる。
そして同時に、他の人々は永遠の滅びに定められている。
ジャン・カルヴァン

もっと簡単な言葉で言うと、人間がこの世に生まれたときから、
死後に天国に行くか地獄に行くかは決まっているということです。
いくら善行を積んだり、祈りを重ねたりしてもこれは変えることができない。
カルヴァンは聖書を深く読み込んでこの結論に達しました。すべての人間は
エデンの園で神の言いつけにそむいたという原罪を持っています。
ですから、自分の行動で天国や地獄に行くことは不可能と考えたんですね。
それにこだわらず自分の職業に努力しなければいけない。
そうすればこの世での成功を得られるかもしれない。
社会学者マックス・ヴェーバーは、カルヴァンの予定説が近代資本主義の
精神形成に影響を与えたと分析しました。救いの確信を得るために、
人々は禁欲的に職業に励み、自分の成功を「選ばれた証」と
みなすようになったとしています。
マックス・ヴェーバー
次に登場するのは、日本の仏教者 親鸞。親鸞(1173~1262)は、
鎌倉時代を代表する仏教思想家であり、
浄土真宗の開祖として知られています。彼の生涯と思想は、
日本仏教の歴史において画期的な転換点をもたらしました。
彼の思想は「絶対他力説」と言います。やはりカルヴァンと同じく、
人間の力だけでは救いには到達できないと考えました。
しかし、仏の一人である阿弥陀如来は、自分にすがるものは
すべてのものを救うという誓いをたてました。ですから、阿弥陀如来に
おすがりすれば、どんな悪人でも救われる。これを聞いて、
源平の合戦で多数の敵を殺した熊谷直実は、親鸞の師である
浄土宗の法然の弟子となったんです。
親鸞上人

救われるかどうかは、人を殺したりしていようが関係ありません。
阿弥陀如来におすがりする証として「南無阿弥陀仏」の念仏を毎日
ただひたすらに唱える。基本的にはこれだけです。
また、親鸞は、僧侶でありながら結婚し肉食も行いました。形式よりも
信仰の本質や心のありかたを重視したんですね。当時としては
驚異的な高齢と言える90歳まで生きて没しました。
さて、ではこの2人の考えにおける共通点はなんでしょうか?
これはおわかりですよね。どちらも「人間は自力で救われない」とする点で
一致します。神または仏の働きによってのみ救いが可能と考え、
形式的な行為よりも、内面的な信心を重視しました。
カルヴァンと親鸞の思想

では、相違点は何でしょう? カルヴァンの場合は、救われるかどうかは
あらかじめ決まっているのだから、それにこだわらず
自分の職業に励めと説きましたし、
親鸞は、自分は無力であることを自覚し、ただひたすらに阿弥陀如来の名を
唱えよ、としました。カルヴァンの場合は何をして結果は変わりませんが、
親鸞の場合は、阿弥陀仏に出会うかどうかでその後が決まります。
カルヴァンと親鸞は、異なる宗教・文化圏に生きながらも、「救いとは何か」
という問いに対して深く向き合った思想家たちです。で、この問いはまた
「運命とは何か」とも言いかえることができそうだと自分は考えます。

さてさて、現代では「親ガチャ」などという言葉があります。どんな家庭に
どんな能力や容姿で生まれるかは自分で決めることができない。
しかし、これを打破する方法として、ラノベや漫画などでは
「異世界転生」などの考え方も出てきています。これは自分では
どうしようもない運命を、別の世界へ行くことで変えようとする一つの
手立てと見ることもできます。では、今回はこのへんで。

