今回はこういうお題でいきます。仇討ちは敵(かたき)討ちともいい、
許されるのは基本的には尊属が殺された場合だけでした。つまり、
自分の両親や兄などが殺された場合。ですから、妻子や弟妹が
殺された場合の仇討ちは認められていませんでした。
また、主君の仇討ちは、本来は制度の趣旨からは認められても
おかしくはありませんが、赤穂浪士のような場合は公的には
仇討ちとは認められませんでした。赤穂浪士は吉良家との合戦の
つもりでしたが、事件は私闘として処理されました。
これは吉良家に対して、すでに最高権力である幕府からの処分
(お咎めなし)が降りていたためです。赤穂浪士はこれを
喧嘩両成敗にかなわない不当な片手落ちの処分と考えたわけですが、
幕府の見解に異を唱えることはできません。

また、仇討ちの仇討ち(重仇討ち)はきりがないとして
認められませんでした。さらに、相手には返り討ちといって、
仇討ち者を倒す権利が認められていましたが、もし相手の居場所が
判明した場合は主君に処分されてしまうこともありました。
さて、なぜ仇討ちが行われるようになったかというと、これは
幕藩体制と関係があります。藩の警察権や裁判権はその藩の中でしか
認められていなかったのです。また、幕府の権力も及ぶのもせいぜいが
関八州や直轄地だけです。
ですから、犯人が他の藩へ逃げてしまった場合、他人の藩内を騒がせて
犯人を捕らえるということはできにくかったんです。
ただまあ、その藩の藩主と自藩の藩主が親しかった場合、犯人引き渡しを
求めたケースもありました。

こういった幕藩体制の欠陥を補う意味もあって、被害者には犯人に対する
仇討ちを認めざるを得なかったんですね。仇討ちに出た者は
基本的には休職あつかいになりました。
現代と違ってスマホもネットもテレビなどもなく、犯人を見つけるのは
たいへん難しかったでしょう。一生かかっても見つけられないケースも、
何十年もかかったケースもあります。また、もし見つけられたとしても
返り討ちにあう場合も。
仇討ちの旅に出たものは、基本的には無給です。ですから旅の様子は
悲惨なものでした。ただし、他の藩にも評判になった事件に対しては、
内々に自藩で犯人探しを手伝ったり、助太刀を出したり、
旅費を支給したりと いろいろ手を貸す場合もありました。

あと、仇討ちに出たものの家族には、わずかな手当が出ましたが、
多くの場合は最初の数年間だけで、年月が長引くほど事件は忘れられ、
家族は困窮していきました。それでも、もし仇討ち成功のあかつきには
一夜にして名誉の家として称賛されることもあったようです。
仇討ちを行うに際しては、幕臣であれば幕府に、藩士であれば自藩に
届けを出さなければいけませんでした。そして仇討ちが成功した後に
奉行所でその届けと照合されるわけです。
このとき、仇討ちが成功すると幕府から賞賛されて褒美の金品を贈られ
ることもありましたが、失敗した場合や無許可で行った場合は
処罰されることもありました。

まあ、だいたいこんなところですね。結局、全国的な警察権、警察網の
ない制度上の欠陥だったわけです。ですから、仇討ちを美談としてだけで
かたづけることはできないんです。
日本の有名な仇討ち事件としては「曾我兄弟の仇討ち」 「鍵屋の辻の決闘」
「赤穂事件(忠臣蔵)」などがあり、「日本三大仇討ち」として知られています。
(曽我兄弟は鎌倉時代)このうち荒木又右衛門が江戸時代の二つの事件に
関与しています。では、今回はこのへんで。
