俺は、37歳のサラリーマン。仕事はIT関係でかなり過酷だ。ブラックに近い

かもしれない。だが、家庭のほうはもっと大変だった。子どもは娘が2人で、

可愛いが生活にはかなり疲れてきた。今朝もちょっとしたことで

妻と大ゲンカをしてしまった。そして今は午後10時を過ぎた時間、

やっと残業が終わり、俺は駅へ向かう途中。終電まではまだ時間はある。

俺は繁華街の中のドブ川にかかっる橋の欄干にもたれて、ずっと下を流れる

川の暗い水面をながめていた。もちろん夜なので俺の姿は映らない。そのかわり、
川岸に並ぶ店々のネオン看板がにじむように映っている。川からは
少しだけだが、腐った生ゴミのような臭いが漂ってくる。ここの水も
昼に見ればきれいなのだが、やっぱり汚れているんだろうな。この時間でも
人の通りは多い。しかしみな足早に先を急いでいて、俺のように足を

止めているものはいない。と、そのとき、俺が映っているはずの
水面のところを銀色のものが通り抜けた。「えっ? 今のは何だ?」思わず
自分の後ろを振り返ったが何もいない。そのとき短い橋の上にいたのは
俺以外には酔っ払った年配のサラリーマンが一人だけ。なんだ気のせいか。
そうだろうな。あんなギラギラ光る人型のものなんかいるはずがない。
たぶん光の加減で見えた目の錯覚か、さもなければ俺の幻覚だろう。
パソコン画面の見過ぎで疲れているんだろう。そう考えるしか
なかった。翌日もまた残業になった。俺が今抱えているプロジェクトに
思ったよりも時間がかかっている。といっても、出社したのは昼過ぎだったから
会社にいるのは10時間くらいか。一息つこうと思った。それで自販機で
コーヒーを買おうと思って会社の廊下に出た。

こんな時間なのに、ビルの階にはまだ電気がついている部屋がたくさんあった。
他の会社の部屋だった。どこも大変だなと思った。こんな世の中じゃ
いつか自分を見失う。そうならないためにみな必死で働いてるんだろう。
俺は湯気のたつコーヒーのカップを片手に階段を登った。どうせ1階だけだし
エレベーターを使う気はなかった。このほうが運動になる。
俺は階段の踊り場で窓のほうを見た。そこは8階で夜の街が見下ろせる。
大きな窓だったが鍵はついてない。自殺防止のためだろうか、最初から
開かないように設計されているのだ。ガラスに顔を近づけようとしたとき、
ガラス面に大きな銀色のものがとまった。何だこれは? それは実際の
人間くらいの大きさだったが、目も鼻も口もなかった。頭はつるっと
丸い形をしていて髪の毛もない。全体が銀色で、まるで鏡でできた

マネキンのようなもんだったんだ。もう一度思った。何だこれは? 不思議だが
幽霊などだとは思わなかった。あまりに未来的な姿だったし、それまで
イメージしていた幽霊とはまったく違う。それにこの窓の外の壁に
足がかりはないはずだ。8階までどうやってやってきたんだ? もしかして

虫か何かで翔んできたのか?  いや、こんな大きな虫がいるわけがない。
俺はガラスに近づいてそいつをもっとよく見ようと思った。そしたら
ガラス越しに、そいつの胸のあたりに俺の顔が映ったんだよ。胸の丸みで
俺の顔はゆがんでいた。と、そのとき俺の頭の中に言葉が流れ込んできたんだ。
耳で聞いたわけじゃないと思う。その声はこう言った。「私は夜の鏡。
なぜ鏡になったかはわからないが、自殺した罰だと言われた」  「言われた?
誰に?」だが、答えは返ってこなかった。「私が罰を受けたのは、遠い昔に

自殺したせい。その頃のことはよく覚えてないが、高いところから
飛び降りた気がする。そして私は夜の鏡になった・・・これからお前に
3つのものを見せる。これをすべて見るまで動いてはならぬ・・・
まずはじめは、お前を愛するものの姿だ」そのマネキンの胸部に俺の
両親の顔が映った。そう言えば去年は一度も帰郷していない。そして
次に映ったのは嫁に行った年の離れた姉の顔、これもしばらく会ってないが
元気にしているだろうか? そして次は、大学のときに初めてつき合った
女の顔。 心配性で、俺と別れることをいつも怖れているような感じだった。
この娘ともずいぶん長い間会っていない・・・俺がそれらに見入っていると、
またマネキンの声が聞こえた。「次はお前が愛するものの顔だ」2人の娘の
寝顔がそこに映った。この映像はそれで終わりだった。「最後に・・・」

夜の鏡のマネキンの厳かな声が響いた。少し悲しげなトーンが混じっている
ように聞こえた。「最後はお前が殺すものの姿だ。私がお前に見えるのも、
このことが原因なのだ。私はお前にこの運命を見せるためにここに来た。
それが私の役目なのだ。他の人間には見えない」
・・・・気がつくと、俺はコーヒーの入ったカップを持ったまま、

会社の階段の踊り場からビルの外の街をながめていた。俺は・・・
なんでここで立ち止まったんだろう?
そんなに長い時間ではなかったはずだ。その証拠に手の中のコーヒーは
ほとんど冷めちゃいない・・・やはり仕事がかさんで疲れているのだろう。
今夜は適当なところで切り上げて早く帰ろう。
もちろん、さっきまで見ていたもののことはまったく覚えていなかった。