今回はこういうお題でいきます。日本史において、身分制度が厳格に
定まったのは、じつは江戸時代と言っていいでしょう。
それ以前は、身分は流動的で、例えば足軽の子の豊臣秀吉が
天下を取るなどのこともありました。

江戸になって、幕府は人民を支配するために厳しく身分制度を定めました。
そして武士の子は武士、農民の子は農民となったわけです。
武士の優位を示すためにいろいろな特権も付与されました。

その一つが刀を2本差すことであり、斬り捨て御免もまたそうだったんです。
「御定書百箇条」という、幕府が出した法令には、
「ひどい悪口を言われたり、無礼な仕打ちを受けたときは、武士は
町人以下を斬り殺してもよい」となっていました。

 



これが斬り捨て御免、無礼討ちと言われるものなんですが、実際は簡単な

話ではありませんでした。斬り殺した後の手続きがあまりに面倒だったため、
早い時期から空文化、形骸化していたんです。

例えば江戸の町で武士が町人を斬り殺すと、武士はまず自分の所属する部所、
藩士であれば自藩に申し出なければなりません。そして藩から町奉行所に
届けが出されて、奉行所が理由、状況などを詳しく吟味しました。

その結果、行為が正当と認められれば罪にはなりませんでしたが、
不適当とされた場合は処罰を受けることになりました。また、
武士が町人を理由なく斬った場合、いわゆる辻斬りは死罪です。

 



有罪になれば、刀を取り上げられたり、江戸から国元に帰されたり、
武士のほうが悪いと認められれば切腹になることもありました。
ですから、簡単に刀を抜くことはできなかったんです。

このあたり、普段から江戸に在住している幕臣はよく知っており、町人とも
うまくやっていましたが、参勤交代に同行して各藩から出てきた武士は、
江戸の風習になじめずトラブルになることが多かったんです。

各藩の江戸家老はこのことをよく心得ており、普段から老中、町奉行所
などに金品を贈って、いざというときに寛大な処置をしてもらえるように
心がけていました。藩によってはトラブル解決のマニュアルの
ようなものもあったようです。

 



結局、地方の武士は江戸人の持っている「粋」という概念がなかなか
理解できず、吉原遊廓などでも「不粋」な行動を取ってしまうことが
珍しくなかったからです。

また、浪人なども詮議の際に不利な状況を招くことが多かったでしょう。
ですから、時代劇に出てくるように、すぐに浪人が刀を抜いて
暴れるということはなかったはずです。

浪人は武士の中でも「いらない存在」だったんです。

荒々しい気風で、男尊女卑傾向の強い九州の武士などは特にトラブルが
多かったと言われます。無礼討ちは、権利としては認められてましたが、
実際に行うのは難しく、稀な出来事でした。

 



また、武士たる者、簡単に刀を抜くことは臆病と言われましたので、
面子にかかわりました。さらに現場にいた町人が口裏を合わせて
武士に不利な証言をすることもありました。結局、斬り捨て御免、
無礼討ちは武士にとって損にしかならなかったんです。

特に江戸中期以降、天下泰平の世の中になってからは、剣術は出世のために
やっていても、一生の間、刀を抜かずに過ごすものが多かったんですね。
では、今回はこのへんで。