今回はこういうお題でいきます。代表的な時代劇として評判の高いのが
「水戸黄門」ですね。助さん、角さん、風車の弥七らをを引き連れ、

ちりめん問屋のご隠居として町人姿で諸国を漫遊する水戸黄門。

黄門というのは光圀の官位であった「権中納言」の中国風の呼び名です。
宮殿の門が黄色に塗られていたことに由来しています。
物語の最後で、徳川家の紋所のついた印籠を見せて悪をこらしめる。
ワンパターンと言われましたが、予定調和の物語と言ったほうがいいようです。

さて、この光圀ですが。「大日本史」という歴史書を編纂していたことは
事実なんですが、かといって、テレビドラマのように全国を漫遊していたという
史実はありません。この人、じつは殺人者として有名なんです。
それも若い頃と隠居してから。

 



若い頃の光圀は放蕩無頼であったとして知られています。派手な格好で
不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに
腹を立てて刀を振り回したり、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを

教えたりもしました。これは、実兄をさしおいて後継ぎとなったことへ、

複雑な思いがあったからだと言われています。

さらには、非人の殺人まで行っています。これは友人の若い武士とともに
浅草の仏堂で休んでいた際、その友人が「床下にいる非人を刀の試し斬りにしよう」
と持ちかけたところ、最初は断ったものの、「できるぞ」と言って、
床下に潜り、そこで寝ていた命乞いをする非人たちを斬ったとされています。

この逸話は、『玄桐筆記』という書物に記されており、著者の井上玄桐は
光圀に仕えた医師であり、偽りとは考えられていません。さらに井上は
若い光圀の勇気を称賛する意図で書いているんです。

 

徳川光圀



ただし、江戸幕府は1602年に辻斬りを死罪相当の罪と定めており、
光圀の若い頃にはまだ戦国期の荒い気質が色濃く残っていたものの、
さすがに禁止されるようになりました。光圀が斬ったのは当時、

一般の人間よりも命が軽いと考えられていた非人です。

さて、藩主としての光圀は、太平の世になって武力で名を上げることが
禁じられたためとして、歴史編纂事業に着手します。光圀が行った事業は、
後に「水戸学」として、勤王思想などに大きな影響を与えました。

水戸学の特徴としては、儒学を基盤としながら、国学・史学・神道を融合した
独自の思想を形成していたことです。南北朝の南朝正統論を唱え、

天皇の正統性を強調し、南北朝時代の武将 楠木正成を

後醍醐天皇に対する忠義の臣としてまつりあげました。

 



ただしこのことが、後の幕末の志士と呼ばれる人たちに大きな影響を
与えて、徳川の世を縮めて明治維新をうながしたことは
大きな皮肉であったとも言えます。

さて、晩年の殺人としては、藩主を隠居していた元禄7年(1694年)、
家臣の藤井紋太夫を殺害したとされています。この事件は、江戸小石川の
水戸藩邸で能楽の会が催されていた際に発生しました。

光圀は能を舞った後、楽屋へ退き、藤井紋太夫と2人きりになりました。
その後、何らかの押し問答があった後、光圀が紋太夫を押し倒し、
鎖骨の上に刀の刃を入れて刺し殺したと伝えられています。

 



この事件の詳細については諸説ありますが、光圀は藩政において強い影響力を
持っていたため、家臣との間に何らかの深刻な対立があった可能性があります。
上記の井上玄桐は、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、
家臣の間にも不安が拡がるようになっていたための行為で、
とっさの殺害ではなく、以前から計画していたものだろうと書いています。

このように、ドラマで出てくる水戸黄門と、実際の人物像は大きく違って
いました。まだまだ戦国の気風を残した剛直で荒々しい人物だったんです。
晩年もけっして好好爺ではありませんでした。
では、今回はこのへんで。

 

水戸学における忠義の化身 楠木正成