江戸ではなく現岐阜県の高札
今回はこういうお題でいきます。高札場とは。幕府の法令や
お触れ書きを書いた札を掲げて、民衆に告知するための場所です。
これ自体は、江戸以前、奈良時代ころから確認され、日本史を
理解するためのかっこうの資料です。
うーん、何に例えればいいでしょうか? 昔の中国の壁新聞の
掲示場に近いかもしれません。あるいは日本の公民館などにある
案内掲示板のような感じ。
江戸市中には大きな高札場が6つあり、日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、
筋違橋内、高輪大木戸、半蔵門外とされ、そのほか江戸市中には
35か所の高札場がありました。
日本橋の高札場

ここはよく江戸市民の待ち合わせ場所にされ、現代の渋谷のハチ公前などと
同じような感じでした。掲げられる高札は木製で、板札に墨書きで表題・
本文・年月日・発行主体が書かれていました。
歴史的に有名なのは1711年(正徳元年)の「正徳の高札」で、
5枚の札(親子兄弟札、毒薬札、駄賃札、切支丹札、火付札)からなり、
忠孝など封建倫理の説諭、火事(火付け)や強訴徒党などに対する
取り締まりを示したもので、倫理的な内容と法的な内容が含まれていました。
六代将軍家宣が1683年(天和2年)の高札を修正増補して
整備したものです。以下、8代将軍吉宗のときまで内容が改定されています。
同じく日本橋の高札場 近くには犯罪者の晒し場も
一例として、親子兄弟札9か条の第一を見ると「親子兄弟夫婦を始め諸親類に
したしく、下人等にいたるまで是をあわれむへし、主人ある輩はおのおの
その奉公に精を出すへき事」こんな感じでした。この内容を見れば、
当時の倫理観や政治の様子がよくわかります。
幕府は「万民に周知の事」することが大切とし、内容が人々に周知徹底
されるよう努めていたので、高札に書かれた内容を出版することも
町人に許可し、町年寄にその配布まで世話をさせました。
幕府は法律について勝手に論ずる出版は禁じていましたが、高札の内容を
そのまま出版することは周知の目的にかなうとして奨励したんです。
また、高札は達筆な人が清書したので、
高札場は地方都市や宿場町など全国にありました

庶民からは文字の手本のようにも扱われました。
その文字は、寺子屋で書き取りの教科書としても採用されていました。
手習いをしながら子どもは内容を覚えていくというわけです。
幕府は高札場の運営は、その設置場所や掲示内容の管理を非常に
重要視しました。江戸時代の捨札場(高札場)は、人々の往来が多い地点や
町の中心部などに設けられ、文字が風雨や日光で劣化しないよう
屋根を設けたり、雨ざらしだった文字の補修も行っていました。さらに、
「高札番」と呼ばれる専任者がいて、札場の整備、修繕、新設などを
管理しました。札場の近くには目立つ柵が設置され、
盗難や破壊行為を防ぐ措置も取られていたんです。
人口が多かった江戸の街

江戸の庶民は捨札場と呼ばれる公共の掲示板を利用しました。新橋にあった
芝口捨札場などが利用されました。ここは行倒れで身元不明の死人の
人相や着衣などを掲示する場所として幕府が設置したもので、
例えば迷子などがいた場合も、この捨札場に7日間掲示されました。
それでも親が現れなかった場合、近くの町内などに迷子の特徴を
書いた紙が貼り出されました。
だいたいこんなところですかね。とにかく江戸は当時としては人口が多く、
幕府は意外に細やかな政治を行っていたんです。またそれが、
民衆に身分制度を納得させるための手段でもありました。やがて
明治になり、新政府は明治7年(1874年)に高札の廃止を決定。
では、今回はこのへんで。
「捨馬」禁止の御触書


