今回はこのようなお題でいきます。差別にかかわることですので、
このような話題がお嫌いな方はスルーされて下さい。それと、この内容は
日本史の中でも研究が進んでいない分野であり、自分が書くことが
間違っている可能性もあります。そのことをご承知おきください。
まず最初に、日本において身分制度が固定されたのは江戸時代からです。
それまでは身分というものは流動的で、例えば農民または足軽の子であったと
考えられる豊臣秀吉が天下人になるなどのことも起きたんですね。
ところが江戸時代になって、武士による支配を正当化するために、
士農工商の身分秩序が固定されました。これらの身分は基本的には世襲で、
親から子に受け継がれたんです。で、この士農工商の下にあるのが穢多・非人。

ただし、この両者の区別はあります。まずは穢多からいきましょう。
穢多という言葉が文献に見られるのは13世紀からですが、
それ以前、平安時代ころには似た存在があったでしょう。
基本は宗教です。日本神道における穢れの思想。そして大きかったのは
仏教における殺生戒です。これを生活のために犯す人々は
人々から蔑まれる存在だったんです。
具体的には、牛馬の屠殺をするもの、皮革の加工をするものなどです。
ただし、世の中には何事にも表と裏があります。皮革というものは
武具の鞍や鎧、刀の鞘などの製作になくてはならないもので、
それをするものの存在は厚く保護されていたんです。

また、皮革は武具馬具だけではなく、庶民の雪駄などにも使われていました。
ですから、それを行う穢多の中にはたくさんの収入があって、
裕福なものも多かったんです。
ただし、これらの加工にはきつい臭いがともないますので、居住する
地域を制限され、多くが河原などに住みました。ここから
河原者、河原乞食という言葉が生まれました。後には遊芸をする者や
乞食坊主なども含まれます。
幕府では、穢多の中には収入が多いものがいて、一般庶民よりも
いい暮らしをしていたりするのは不味いので、ぜいたくの禁止令を
出したりもしています。
河原の住居

非人はこれらとは異なり、よく人別帖外の存在と言われたりもしますが、
多くは人別帳の枠内にある存在だったようです。また、非人手下(てか)も、
奴隷とは異なる存在であったとされます。
非人は千差万別で、罪人・世捨て人・乞食・ハンセン病患者など、
多様な人々を含みます。基本的な職掌は物乞いでしたが、刑の執行や
試し切りの手伝い、埋葬などを行うものもいました。
また、刑罰として庶民の身分を剥奪され、非人手下に落とされたものは、
刑期が開けると庶民に戻ることができましたし、恩赦なども
あったようです。賎民身分の総称と考えればいいのかもしれません。
非人には厳しい差別がありました。例えばひと目で非人とわかる服装をすること、
特定の区域(非人小屋)に住むこと、一般民の住居には入れず、入っても
土間までとか、一般民と同じ火を使って調理した料理は食べない、などです。
関東の穢多頭 弾左衛門

この穢多・非人を置くことで、農工商業の庶民は自分たちよりもまだ
下の存在がいると考えて、理不尽な身分制度に疑問を持たないように
させられていたと言うこともできます。
関東に関しては幕府は穢多頭、矢野弾左衛門にその支配権を与え、
制度を整備し、穢多および非人身分を間接支配しました。
皮革の製造加工の権利を独占していたため、
弾左衛門は大名並みに裕福だったと言われます。

ちなみに、江戸時代には穢多・非人の命は庶人の7分の1という話もあり、
江戸時代に穢多が殺された際、奉行が穢多の命は平民の命の7分の1に
相当するという判決を出したとされています。
ただし、この話の史実としての証拠はありません。
明治の世になって、身分解放令(1871年)が出され、穢多・非人は
「新平民」として身分制度から解放されました。
これは諸外国に対する意味がありましたが、国内での反感は大きく、
身分解放令反対一揆なども起きました。この差別は現在でも続いています。
では、今回はこのへんで。
