明治時代の末期頃のことだと思われる。〇〇地方に、ある湖があった。
それはかなり広い面積だったが、水深は深いところでも20mほど、
だから湖とは呼ばれずに潟という名前がついていた。5月上旬の朝方、
潟には多数の舟が出ていた。伝統的な網漁をする一人乗りの小舟だ。
穫れる獲物は大型のフナ、これはほとんど鮒ずしになる。あとはマス、
ウナギ、ナマズなどだ。ナマズは脂がのって美味だが、地元のもの
しか食べない。ある60代の漁師が舟を竿で漕いでいると、湖面に
奇妙なものが浮いているのを見つけた。青白い色をしていてかなり大きい。
魚とは思えない。「何だこれ?」そう思って竿でつつくと、少し力を
加えただけなのに、そのものは大きくぐるんと向きを変えた。
人間の・・・裸の上半身だった。男のように見えた。「うわわわっ!」

老漁師は驚いた。その死体はふやけてずいぶん大きくなっていた。ところどころ
魚に食われたのか、赤黒い肉が露出していた。漁師はすぐに逃げて
帰りたかったがそうもいかない。警察にどやされるだろう。そこで漁師は
気味が悪いのを我慢し、遺体の脇の下に縄をかけて近くの倒木に結わえつけた。
ものすごい腐臭がした。そうして岸をめざした老漁師は、陸にあがると
一目散に駐在所を目指した。連絡を受けた駐在は、現場を確認すると
青年団に声をかけて遺体の引き上げを行った。遺体はかなり腐敗が進んでいたが、
まだ体がばらばらになるほどではなかった。ただ、あまりに腐敗臭が
ひどいので安置する場所には困った。結局、その村に一軒だけの寺の
炭小屋を借りて、むしろを敷いた上に寝かせておくしかなかった。
たくさん香炉を用意してなんとか臭いはごまかした。

警察ではまず身元を確認しようとしたが、着衣はすべて はがれていた。
特徴のある傷なども体にはなかった。しかし、身元は数日内にわかった。
その潟の周辺ので、若い漁師が一人行方不明になっていたからだ。
おそらく遺体はその男だろう。それともう一人、村の有力者の娘も
行方不明だった。そして、遺体の男とその娘が恋仲だったこともわかった。
男は娘の両親に結婚を願い出たが手ひどく拒絶された。叩き出される
ような形だったらしい。その日のうちに屋敷から娘の姿が消えた。
置き手紙が部屋から見つかり、それには「心中します」とだけ書かれていた。
警察では、添い遂げることのかなわないその男と娘が潟に身を投げたものと
考えた。だとしたら、娘の遺体も潟のどこかにあるはずだ。
その後、大規模な捜索が開始されたが、どこにも娘の遺体は見つからなかった。

その潟には海へとつながる水路もあるため、外洋まで流されたか、潟の
倒木に引っかかって浮いてこないのだろうと思われた。
男の遺体が見つかった翌日、杖をついた老人が遺体が安置された寺に
やってきた。娘の祖父で、前の前の代の村長だ。老人は男の遺体を見るなり
激昂し、「お前のようなもののせいで大事な孫がいなくなってしもうた。
お前のような身分の者が孫といっしょになれると思うたか!」そう言って、
杖で死んだ男の体を打った。老人の弱々しい力だったのに、その一撃で男の
体は裂け、黄色い体液が飛び散った。いっそう腐臭が酷くなった。
そしてそのとき、一瞬で青白かった男の体の色が黒く変わった。
老人は「げえ!」と えずいてひとしきり吐いた。黒く変わった男の
遺体の色は元に戻ることはなかった。その知らせを聞いて、寺の先代の

住職が様子を見に来た。先代の住職は80歳を過ぎてもう隠居していた。
そして男の遺体を一目見ると「ああ、これは塗仏に変わってしまっている。
このままでは祟りをなすだろう」そう言った。それを聞いたものはみな
恐ろしくなった。「どうすればいいのですか?」先代の住職は「今夜は
わしが一晩この遺体とともにいて供養をしてみよう。誰も近寄るでないぞ。
本山から伝わった秘密の祈祷をやるから」息子の住職を含め、みながその
言葉に従った。さっそく遺体を安置した炭小屋の前に護摩壇が築かれ、
先代の住職は格式の高い袈裟を着てその前に座った。「夜が明けたら見に
きてくれ。その頃には成仏させることができるだろう」・・・しかし翌朝、
住職や村の者が見に行ってみると、祭壇の前で座った状態で先代住職は
前方に倒れ伏していた。息がなかった。そして男の遺体は黒いままだった。

これはもういかん。男の遺体はこのまま埋葬するしかない。その上に供養塔でも
建てれば男の祟りも収まるだろう。そうみなの相談がまとまった。そこで
青年団の連中が、いやいやながら男の体を運び上げることになった。
とりあえず棺桶に入れようと上半身を抱き起こすと、真っ黒な男の顔から
両方の目の玉がでろんと流れて地面に落ちた。「うわわわわっ!」あまりの
気味の悪さにそこにいたみなは吐き気をもよおした。結局、男の体は埋葬は
せず、潟に戻すことになった。戸板に乗せて潟の最も深いところまで運び、
そこに投げ捨てることにしたのだ。これは当時でも、もちろん死体遺棄罪に
なるが、地元の警察も黙認してくれた。潟に投げ捨てられた男の死体は、
青変わらず黒いままで、水に入るとしばらく頭を上にしてプカプカ浮いていた。

目玉のなくなった両方の眼窩で空をにらむようにしていたが、やがて
ゆらゆらと潟の底に沈んで見えなくなった。これで一つことが済んだ。
男の遺体が見つかって3日になるが、娘のほうの遺体は見つからなかった。
その後も今にいたるまで見つかってはいない。娘の祖父、村の有力者の
老人は、この顛末をだいぶ後悔したようだった。後日、知り合いに、
「こんなことになるなら、男が屋敷に来たときに結婚を認めてやれば
よかった」とぽつりともらしたという。その後は特に祟りらしいことはなかった。
寺の先代住職の他に村で死んだものはいなかった。ただしである、
それからしばらくは、村の漁師が潟で漁をするたび、網に真っ黒なナマズが
かかるようになった。そのナマズは臭いが酷く、とても食べられるものでは
なかったという。もっとも、臭いがなくても誰も食べるものはいなかっただろう。


村では、死んだ男と娘が、潟の底で産んだ子どもなのではないかと噂した。
その真っ黒いナマズが穫れることは3年以上も続いたということだ。
・・・こういうのが塗仏なのだそうだ。その寺の当時の住職の息子、

死んだ先代住職の孫から聞いた話である。

 

妖怪「塗仏」