今回はこういうお題でいきます。中国のお話ですね。これも中国らしい
すごくスケールの大きい話で、「屠蜀」は「屠川」とも言います。
蜀の地は現代の四川省にあたりますので、こう言われてるんです。
時代は明の終わりから清のはじめ頃。西暦にすると17世紀のことに
なります。登場するのは張 献忠(ちょう けんちゅう)という人物で
41歳で清との戦いで亡くなっていますが、この人、現代の中国では
大悪人として知らない人がいないくらいなんです。
Wikiには「延綏鎮柳樹澗堡の出身。もとは軍籍にあったが法を犯して
除籍された。1630年に王嘉胤が反乱を起こすと、米脂県にいた
張献忠はこれに呼応し八大王を自称した。間もなく高迎祥の下に投じて
東方へ進出し、山西・河南を転戦した」とあります。
後代の軍閥みたいな感じだったんですね。
中国のサイトから

で、この後、中国の蜀(四川)の地を支配するようになり、そこで大虐殺を
行ったという記録が残ってるんですね。どのくらいの規模かというと、
1578年に人口300万人以上だった四川は、1685年には
1万8千人まで減ったとされています。
300万人の人間が死んだわけです。そのため、四川には他の地域から
数百万人が移民しなければならなかったほどで、また四川の方言が
現在は残っておらず、言葉が北京語に近いのもこのためと言われています。
それくらいの大虐殺を起こした。
このような記録が残されています。「暴君(張献忠のこと)はすぐさま、
あの大きく、人口の多い都市(成都)を元々住んでいた人のいない
無人の孤立した状態に変えてしまった。

まわりを囲むように流れていた河は朱く染められ、あたかも水ではなく
血のようであった。その上、死体で満ちていたので、海に注ぐ、とても
水量の多い河にもかかわらず、何日にもわたって航行することが
不可能だった。河に隣接した都市や町はこのような残虐ぶりに
恐れおののき、その理由を理解することができなかった」こんな感じです。
では、実際の大虐殺の様子を見てみましょう。まず科挙(官僚の登用試験)
をやると言って、集まってきた受験者の前で120cmのところに縄を張り、
それより背が高いものは全員殺した。理由は彼らが知識人だったため。
その数は1万3000人だった。
宮殿の官僚を全員集めてその前に犬を放った。そして犬が臭いを嗅いだ
人物から殺した。結局すべての官僚が殺された。もちろん女子どもも
容赦しなかった。張 献忠は殺した女の纏足の足を切り落として山を作った。
そしてその山の天辺におくため、自分の愛妾も殺した。
清の皇帝

兵士には1日に100人を殺すというノルマを与え、これを達成したものは
昇進するようにした。兵士は喜んで人民を殺し、張 献忠は軍隊を率いて
出発し、大人も子供も、少年も老人も殺した。彼は都市や町や村を
焼き尽くし、その結果、すべてが灰燼に帰し、ただの一軒も残らなかった。
また、殺された農民が多く兵士の食料がなくなったので、兵士の間では
人肉食が流行ったそうです。中国では人肉のことを両脚羊って言うんです。
また、友人を集めて酒宴を催し、その帰りに刺客を放って友人を全員殺した。
そしてその首を卓の上に飾り、その前に酒や食物を供えた・・・
まあこんな感じです。虐殺をした理由は、張 献忠は「四川は俺が手に
入れたたのだから、俺がすべて滅ぼしてしまうのだ。ただの一人でも
他人のために残しておかないぞ」こう言っていたそうです。
張献忠

献忠の虐殺方法には以下があったとされています。・匏奴(ほうど)- 手足切断
・辺地(へんち、邊地)- 背筋で真二つに斬って生きたまま皮をはぐ
・雪鰍(せっしゅう - 空中で背中を槍で突き通す
・貫戯(かんぎ、貫戲)- 子供たちを火の壁で囲んで焼き殺す
ただし、これは後に中国を支配する清(満州族)の記録なので、だいぶ
割り引いて考える必要があります。清自身も大虐殺を行っており、それが
献忠のせいにされたというのも多分にあったでしょう。ただ、前述したとおり、
四川の人口が激減しているのは事実で、献忠の虐殺も確実に
あったと考えられています。
石碑の両側には「天生萬物與人 人無一物與天」と書かれており、
石碑の中央には「殺殺殺殺殺殺殺」という文字がありました。
このため「七殺碑」と呼ばれているんだそうです。
「天生萬物與人 人無一物與天」の部分は「與」は「与」の旧字で、
「天はすべてを人間に与えたのに、人間は天に一つも与えていない」
という意味です。しかし、この碑は発見されておらず、伝説と
考えられています。では、今回はこのへんで。

