またしても妖怪談義です。今回はこいつでいきます、
「百々爺 ももんじい」。石燕の絵を見てみましょう。
枯葉の中に枯れ枝を杖にした老人が立っています。
体は毛深く、その顔はどことなく獣じみているようにも見えますね。



詞書は長く、「百々爺未詳 愚按ずるに 山東に 摸捫ぐは(ももんぐは)
と称するもの 一名野襖(のぶすま)ともいふとぞ  京師の人 
小児を怖(おど)しめて 啼(なき)を止むるに 元興寺(がごし)といふ
もゝんぐはと がごしと ふたつのものを合せて もゝんぢいといふ 
原野 夜ふけて ゆきゝたえ きりとぢ風すごきとき 老夫と化して 
出て遊ぶ 行旅の人 これに遭へばかならず病むといへり」


訳すと、「百々爺についてはよくわからないが、愚考すると、関東で「モモンガ」
と言うものは、別名「のぶすま」とも言うというそうだ。京都の人は、
子どもをおどかして泣きやませるのに「ガゴシ」と言う。ももんじいは、
モモンガとガゴシの2つを合わせたものだ。野原の夜が更けて、
人が通らなくなり、霧と風が激しいとき、老人の姿となって外に出て遊ぶ。
旅人は、これにあうと必ず病気になると言われている。」こんな感じですか。

まず、「モモンガ」と「野襖」は、どちらも同じリス科の動物のことですね。
前脚から後脚にかけて張られた飛膜を広げて滑空することができます。
石燕には、別の妖怪画で「野衾」があり、下図のようなものです。
獣のくせに空を飛ぶのが珍しいので、妖怪のうちに加えられたのでしょうか。



後半は言葉の語源のようなことが書いてあります。京都の人は、子どもが泣くと、
「ガゴシが来るぞ」と言っておどかす。ガゴシは幼児語でお化けを表します。
で、百々爺は、モモンガとガゴシが合わさってできたものだろうか、
というわけです。しかし、自分は、このあたりの記述は

あまり意味はないと考えます。石燕は、本来の意味を

ごまかすために、あれこれ言ってるような気がしますね。

ずばり、百々爺は「肉食」を表してるんじゃないかと思います。
日本の獣肉食の歴史をざっとふり返ってみますと、仏教伝来までは、獣肉は

貴重なタンパク源として、普通に食べられていました。農耕は不作の年もあり、
狩猟・採集による食物の比重が、まだまだ高かったんですね。

それが、仏教の殺生戒という考えがだんだんに浸透していき、
『日本書紀』によると、675年、天武天皇は、農耕期間である4月~9月の間、
牛、馬、犬、猿、鶏を食べてはならないとする禁令を出しています。
ただし、獣肉食の中心である鹿と猪はのぞかれています。
これは、田畑を荒らす害獣であったせいもあるんでしょう。

 



鎌倉時代から武士の世になると、武士の間では獣肉は食べられていましたが、
殺生をなりわいにしている猟師が、その罪で地獄に落ちるなどの
仏教説話が広まり、また、屠殺業者、解体業者などへの差別も始まって、
だんだんに、武士の間でも獣肉食は禁忌とされるようになってきました。

 

1587年に豊臣秀吉が出した「バテレン追放令」には、
追放の理由の一つとして、西洋人宣教師が肉食することがあげられており、
牛馬の売買、屠殺、食することを禁止しています。
これは、江戸時代に入っても比較的よく守られていました。

17世紀には、徳川綱吉の、俗にいう「生類憐れみの令」によって、
殺生は厳しく禁じられましたが、それも江戸市中だけのことで、
地方では魚釣りなどは普通に行われていましたし、バカバカしいと思った
徳川光圀(水戸黄門)は、綱吉に、あてつけに犬の毛皮を送ったりしています。
「生類憐れみの令」のほとんどは、綱吉が死ぬとすぐに撤廃されました。

これが石燕の時代の百年ほど前の出来事です。石燕のころには、
表向きは獣肉食禁止でしたが、「薬喰い」と称して、滋養強壮を謳い文句に、
おおっぴらにではありませんが、獣肉を食わせる店もあったんですね。
それを「ももんじい屋」 「山くじら屋」などと言います。



山くじらは猪の隠語です。(ちなみに鯨は魚と考えられ、食べてもよかった)
また、猪は牡丹とも言われますが、これは花札の絵にかけられています。
また、鶏は柏、鹿は紅葉です。鹿の紅葉も花札になっていますが、
これはもともと、「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」
という『古今和歌集』の猿丸太夫の歌からきています。



さてさて、ということで、百々爺は獣肉を食わせる「ももんじい屋」と
モモンガが合体したものでしょう。もう一度、石燕の絵に戻ってみると、
枯葉の中には、紅葉(鹿)がありますし、柏(鶏)に見えるものも

ありますよね。これも、まず間違いがないんじゃないかと思います。

柏の葉


ただ、石燕が獣肉食についてどう考えていたのかはよくわかんないですね。
石燕の同時代人で、仏教が嫌いだった本居宣長は、その著書で、
古代の肉食はあたり前だったと考察していますが、百々爺の寂しげな様子や、
「旅人はこれにあうと病気になる」という詞書の内容から、
石燕は獣肉食には批判的だったのかもしれません。