礼拝堂のパイプオルガン
すみません3人も押しかけてきてしまって。私たち3人が少年時代を過ごした

「シラブル園」の話を聞いてもらおうと思いまして。私は山本と言います。
シラブル園というのは、もうなくなってしまいましたが児童養護施設だったんです。
母体はアメリカのキリスト教団体でした。昭和40年代の話ですね。
そのころはもう孤児院という言葉は使われなくなっていまして、
また、実際に生活しているのも孤児だけではなかったんです。例えば父だけの

片親で、その父親がアルコール中毒で子供を育てられないというような場合。
・・・これが私でした。それから母親しかおらず、

その母親が入院中などの場合もありました。だから家族の病気がよくなって、

比較的短期間に親元に引きとられていった子もいますし、
そのまま孤児になってしまった子もいました。

活動資金はさまざまだったと思います。まずアメリカ本国からの施設への送金、
これは向こうでの慈善活動によるものがほとんどだったと思います。
それから日本での義援金、国からの補助、親がいる場合は

わずかな養育費が送られてくることもあったようでした。それとおそらく

一番大きかったのは、シラブル園を運営する修道会が経営に関っている病院、
この収益金の一部がこの施設で使われていたのです。
シラブル園で生活するのは幼児から中学生までですが、まれに高校生もいました。
高校生はバイトをして、ある程度のお金を入れていたんだと思います。
人数はつねに変動していましたが、だいたい40人くらいだったはずです。
男女で別々の棟にわかれて住んでいました。女子のほうが少なかったです。
これは世話をする修道女の人数が少なかったせいだと思います。


一部屋に3段ベッドが2つあり、6人での生活です。小さい子は

一つの部屋に集められていました。集団生活ですから不自由なもの

でしたが、修道士さんたちはみな気さくで冗談好きな人たちでした。
作家の井上ひさしさんが、「天使園」という施設で育った体験を小説に書いて

おられますが、あのような感じで、郊外にある園の施設には畑地が付属していて、
そこで交代で野菜を作られていました。修道士さんたちは、

アメリカ人らしく細々したことにはあまりこだわりませんでしたが、
規則を破れば罰もありました。寝坊をすれば朝食抜きとか、
ケンカをしたりすれば礼拝堂で懺悔するなどですね。
私たちはここから、近くにある小学校、中学校に集団で通っていたんです。
説明が長くなってしまいました・・・こんな施設でしたから、怖い話も

 

いくつかありました。私が体験したのはこんなことです。シラブル園の

本体は元軍用工場を利用した教会で、その両翼に男女別の建物があったんですが、
教会で日曜日に行われるミサには、私たちは学校の都合がつくかぎり

参加させられていました。といっても2時間程度のものです。

教団の関係者や一般の信者の方も十数人は来られてましたね。
並んで讃美歌を歌う園の子たちもいましたが、それは好きでやってるので、

強制ではありませんでした。その礼拝堂に、小さいながらも自慢の

パイプオルガンがあったんです。練習用のものだったんでしょうが、

壁とくっついて作りつけになっていたんです。このパイプオルガンから、

夜になると人の声が聞こえる・・・という噂があったんです。

まあこれだけだと、学校の音楽室でとか、どこにでもあるような話

 

なんですけれど。私が中学校2年のときです。けして境遇の

せいにするわけではなく、私が悪いんですが、学校で悪い仲間と

つき合いまして、ときどき部屋の窓から抜け出して、その仲間のたまり場に

いくことがあったんです。その日はかなり遅くなって、おそらく

帰ってきたのは10時過ぎだったと思います。園では点呼などはしなかったし、

修道士さんたちはアメリカ人らしく、滅多に私たちの部屋には入って

きませんでした。同じ部屋の仲間には口封じをしてました。シラブル園の施設は

夜が早いんです。消灯は9時半。修道士さんたちもみな早寝早起きでしたから、
この時間にはまず建物の明かりはついてないんですが、
その夜は教会の明かりがついていました。
それだけじゃなく、何やら音楽のようなのがかすかに聞こえたんです。

 

気になったので暗い建物の横の草地に入って、ひび割れをテープで補修した

窓の黒いカーテンのすき間からそっとのぞいてみました。
ステンドグラスなんかではなく、サッシでもない木枠のガラス窓でした。
中ではロウソクが数十本、多重の円形に床に並べられ、その明かりに照らされ、
一人の人だけが正面の十字架の横のパイプオルガンを弾いていました。
その人は白く三角にとがった頭巾をかぶっていましたが、
当時の園長先生かもしれないと思いました。
なぜかというと、園長先生は身長190cmを超える大柄な人でして、
そのオルガンを弾いている人も同じような体格だったからです。
でも他の修道士さんや、ときおり訪ねてくる教団関係の人は総じて

大柄でしたので、違ったかもしれませんが。それから、不思議なことに

 

パイプオルガンからは、いつもの汽笛のような響きはせずに、
人の声が・・・何人もの子どもの合唱する声が聞こえてきていたんです。
讃美歌とはまた違った暗い旋律で、日本語でした。
歌詞もかなりの部分を覚えています・・・印象的でしたし、同じことを

繰り返していましたから。こんな内容でした。「♪ 地下の硫黄の恵みの中で、

私たちは生まれ、今またそこに帰ります。私たちは、

愛も、慈悲も、家族も、何もほしくはありません。ただ暗黒の

元に帰りたい、ただそれだけです。私を選んでください。すべてを捧げます。
赤い火と硫黄の国へ、赤い火と硫黄の国へ、いざ帰らん、今は帰らん」
細部は違っているでしょうが、だいたいこういう歌詞だったと思います。
この歌声が伴奏もなしに、パイプオルガンから流れてくるんです。


・・・うーん、テープなのかもしれませんが、ラジカセなんて園には

なかったと思います。修道士さんたちはみな機械というものを

とても嫌っていて、テレビさえなかったんです。
あったのは車と小型の農作業用のトラクターや、丸ノコくらいでした。
それで、この歌を聞いていると、体が冷たくなってきたんです。
いえ、そのときの季節は6月で、暑いくらいでした。
それなのに体が芯から冷えて、腕には一面鳥肌が立ったほどです。
もう部屋にもどろうかと思いましたが、そのときにぴたりと歌声がやみました。
ほっと気がゆるんだ途端、「イアアアーッ」という叫び声が響きました。
これもオルガンから聞こえたと思います。でなければオルガンのある

床下のほうから。今でも耳に残っていますよ。


体がガクガク震えたんですが、中の光景から目を離すことができませんでした。
頭巾をかぶった人が椅子から立ち上がり、何かを低い声で唱えたんです。
・・・英語でしたから意味はわかりませんでしたが、
確かに「オルガンズ」という言葉が入っていたと記憶しています。
ほぼ同時に、床に並べられたロウソクの真ん中の木の床の一部が持ち

上がりました。中から、階段を上るような足の動きで人が出てきました。
その人も大柄で、やはり三角頭巾をかぶっていました。両手を前に出し、

真っ赤な毛布でくるまれたかなり重そうなものを捧げ持っていました。
オルガンを引いていた人はその人のほうに向かってうなずき、
毛布のはじを少しめくって中をのぞき込みました。
そのとき毛布の重なった下から黒いものがチラと見えました。


人の髪の毛だと思いました。「ああ、自分は今、見てはいけないものを

見たんだ」とわかりました。一瞬でそう悟ったんです。ムリヤリ窓から

硬直した体を引きはがし、そっとそおっと足音を消して生活棟のほうに戻り、

鍵のかかってない窓から入り込みました。

暗い部屋の窓を開けてそっと自分のベッドに

もぐり込みました。他の5人はそろって寝ているようでした。

誰も起きている子はいなかったと思います。
蒸し暑い中で頭からタオルケットをひっかぶりました。
体の震えが止まらず、それだけじゃなくて、とめどもなく涙が流れたんですが、
いつしか眠ってしまいました。これがどういうことだったのかは

わかりません。・・・私のはこんな話です。