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『捨身飼虎図』

今回はこういうお題で、仏教の話になります。日本史とも深い
関係があるんですが、それを書いてると長くなってしまうので、
できるだけそっちにはいかないようにしたいと思います。
さて、「捨身」と漢字で書くと「すてみ」と読まれる方も
いるんじゃないでしょうか。

自分は学生時代に柔道をやってたので、その読み方のほうが
なじみ深いです。ちなみに、捨身技の中では谷落というのが得意で、
大事な試合で何度も一本を取ったことが・・・と、こんなよけいな
ことを書いてるからスペースがなくなるんですよね。

玉虫
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「捨身」をウェブ辞書で引くと、① 世俗の生活を捨てて仏門に
入ること、出家 ② 供養や衆生 救済などのために、自分の身を
捨てること と、2つの意味が出てきますが、今回 取り上げるのは
②のほうです。まず前説として、仏教は北インドに生まれた
お釈迦様が、前5世紀ころに始めたものです。

この当時、インドは輪廻転生思想が盛んでしたが、お釈迦様自身は
そのことに深くはふれていません。それよりも、今をしっかりと
生きることが大切だと教えたわけです。ですが、お釈迦様の死後、
仏教には当然のように輪廻転生の思想が取り入れられ、
地獄道などの六道の概念ができあがりました。

玉虫厨子
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その中で、お釈迦様が仏になることができたのは、その前世で
まだ菩薩(仏になるための修業中の者)の身のとき、
たくさんの捨身を行って、多くの生き物を救った功徳によると
されます。インドには「ジャータカ」という仏教説話を集めた経典が
あり、そこにはお釈迦様の前世での捨身について書かれています。

玉虫厨子というのをご存知でしょうか。法隆寺にある233cmの
厨子で、7世紀の作とされます。4500匹の玉虫の七色の翅が
貼られていたということですが、現在ではほとんどなくなっています。
これには、ジャータカから取られた「捨身飼虎(しこ)図」と
「施身聞偈(もんげ)図」の2つの捨身物語が装飾されています。

復元された玉虫厨子の捨身飼虎図
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両方紹介する余白はないので、「捨身飼虎図」のほうだけ説明します。
「ある大王に3人の王子がいた。3人が山に遊びに出かけると、
崖の下に虎の母親と2匹の仔がいた。見ると、母虎は飢えのあまり
乳が出ず、やむを得ず仔の一匹をとって喰おうとしていた。

すると、一番年下の第3王子が、兄たちに別れを告げ、崖下に
身を投げて虎に自分の身を差し出した。母虎はその肉を食べ、
乳が出るようになった。この第3王子が転生したのがお釈迦様
である・・・この場合、人間は虎よりも上ということはないんですね。
お釈迦様の前世はウサギやサルだったこともあるからです。

これは仏教に殺生戒がある理由ともなってるんです。仏教では、
もちろん自殺は禁じられていましたが、捨身は認められました。
キリスト教も似ています。キリスト教でも自殺は禁止ですが、
殉教と自己犠牲は認められています。自己犠牲は、自ら十字架に
かかったキリストのように、他者のために身を捧げることです。

即身仏
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仏教では、捨身をすれば成仏できると信じられ、キリスト教では、
天国行き決定です。映画の『コンスタンティン』では、悪魔との
契約によって地獄に引きずり堕とされそうになった主人公は、
自己犠牲をすることで、それから逃れられる設定になっていました。

さて、ここから少し怖い話になっていきます。仏教における
捨身にはどんなものがあるでしょうか。まず一つは密教系の即身仏。
五穀を断ち、数年かけて体から脂分を抜きます(木食行)。
その後、土の中に入って経を唱えながら、最終的には餓死する
(土中入定)わけです。(即身成仏と即身仏は違う概念です)

補陀落船
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湯殿山の即身仏の記録を調べると、歴史的な大飢饉があった年に
土中入定が行われていることがわかります。木食行も土中入定も、
民衆救済のための捨身だったんですね。即身仏は後にミイラ化
したものが掘り出され、人々の信仰を集めることになります。

他には、補陀落渡海というのもあります。渡海船という屋形船に
わずかな食料とともに入り、入り口を釘で閉ざされたまま
流されていくんですが、行き着く先は極楽浄土とされました。
また、泥舟だったり、船底に穴をあけられていたりと、
確実に死ぬように工夫されてもいたんです。

応照上人の焼身往生の跡とされる遺構
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それから焼身往生。平安時代の『日本霊異記』には、
熊野山の応照上人という浄土僧が、紙の僧衣を来て薪の中に入り、
焼身往生を遂げたことが記されています。その他にも何名か記録に
残っていますが、これは苦しかったでしょうねえ。

さてさて、聖徳太子、山背大兄王と玉虫厨子に関する怖い話というのも
あるんですが、それは機会を改め、後日に日本史の記事として書くことに
したいと思います。ここからは余談ですが、1933年から、玉虫厨子の
復元が試みられたものの、玉虫の翅が足りず未完成に終わりました。

これは後に、日本鱗翅学会が日本全国の昆虫採集家や小中学生に
呼びかけて翅を集め、1960年に完成をみています。
ここでみなさんは疑問に思いませんか。玉虫の翅を集めるのは
殺生に当たらないのかということです。まさか、自然に死んだ玉虫
だけを使ったってことはないですよね。では、今回はこのへんで。

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