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本項は明智光秀についてで、カテゴリは怖い日本史に入るんですが、
特に怖いという内容でもないです。それと、ちゃんと書くとすれば
本一冊分にもなってしまう話なので、できるだけ端折って
述べていきます。後半でなかなか面白いオカルトが出てきますよ。

さて、みなさんは光秀の名前を聞けば、おそらく「本能寺の変」
という語を思い浮かべる方が多いでしょう。主君信長に対する下克上。
これによって、日本の歴史は大きく変わってしまっただろうと思われます。
それは、後継が秀吉になり、最終的に家康になったということより、

信長の天下が目前まできていたのに実現しなかったのが大きいと
自分なんかは思いますね。信長は世界の知識が豊富な、古い因習に
とらわれない開明的な人物だったので、おそらくは国の形が
変わるような、大きな改革を実行したのではないかという気がします。

明智光秀
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光秀の話に戻りまして、まず出自が不明です。名門である、
美濃源氏土岐氏出身と言われますが、実は父親の名も、
よくわかってはいません。さらに、青年期に何をしてたのかも
不明なんですね。歴史に登場してくるのは、朝倉義景に鉄砲の

腕を認められたためですが、45mの距離から的を撃って、
ほとんど外さなかったということで、これ、当時としては驚異的な
命中率です。これにより100人の鉄砲隊を率いる将となりますが、
この頃すでに40歳近かったと考えられます。人間五十年と

言われていた頃ですから、もう晩年と言ってもさしつかえないですね。
この鉄砲の腕はどこで身につけたものでしょう。関係する資料の中には、
光秀は名門でも美濃出身でもなく、若狭の鍛冶屋の次男であった、
とするものまであって、これが何か関係しているかもしれません。

織田信長
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ともかく、多芸の人であったのは間違いなく、
この後は、将軍足利義昭と信長の両属の家臣となり、
両家を結ぶ役割を果たしますが、やがて信長の家臣に専念し、
活躍がさまざまに歴史の表舞台に現れてきます。

さて、本能寺の変が起きたのは天正10年(1582年)、光秀が
54歳のときです。日本史最大のミステリーとも言われたりします。
事件の詳細はよくわかっているんですが、光秀の動機が不明です。
それと、陰で光秀を操っていた黒幕がいたのではないかという説。
動機については大きく、野望説、怨恨説、不安説などに分かれます。

本能寺の変 信長の最期
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まあこの手のことは、一つに絞るのはあまり意味はなく、
いくつもの要因が複合されていたと見るべきでしょうが、
もしどれか一つというなら、自分は不安説を取ります。
爆発的な激情型であった信長に、いつ放逐されたり、殺されたり

するかわからないという恐怖から反乱を起こした。黒幕説に関しては、
かつての主人の足利将軍説、正親町天皇説、堺の商人説などが
ありますが、下克上があたり前であった世の中で、一人の武将が
決断したことですし、あまり詮索してもしょうがないという気がしますね。

どんどん話を進めます。本能寺のわずか13日後、光秀は山崎の戦いで
秀吉に敗れ、「三日天下」の語を残して惨死します。京都伏見の藪で、
土民の落ち武者狩りに遭い、そこで竹槍に刺されて絶命したと伝えられ、
首も遺骸も探し出されて、さらされています。

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で、こっからがオカルトで、実はそこで死んだのはそっくりの影武者で、
本人は西洞寺というお寺に逃れ、さらに比叡山に上って、延暦寺東
塔南光坊に入り、天海という僧になったというものです。そして、
慶長年間に家康を駿府に訪ね、相談役として信頼を集めるようになった。

・・・これしかし、時期がかなり離れていますよね。光秀が生まれた
のは1528年頃、天海が亡くなったのは1643年ですから、
116年も生きたことになります。絶対ありえないとは言えないでしょうが、
まず考えにくい。しかし、天海の出自も若い頃の経歴もほぼ不明ですので、
生年を偽っていたというのは考えられなくもないかもです。

天海大僧正の木像
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光秀=天海説の根拠としてよく出されるのは、
○日光東照宮の多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られていること。
○日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名づけたという伝承が
あること。○学僧であるはずの天海の鎧が残っていること。○比叡山に、
1615年に「願主光秀」が寄進した、と刻まれた石灯籠があること。

などです。もっと眉唾なものも含めれば、まだたくさんあります。
天海の家康側近としての功績は、江戸城府の霊的設計、
家康死後の神号を「東照大権現」と決定し、遺体を久能山から
日光山に改葬したことなどがあげられますが、このとき設計した

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日光東照宮に、家康、家光らの御用金を隠したとする話があります。
いつか徳川家の危機が訪れたときに掘り出して使え、
ということでしょうか。そして、そのありかを暗号にして「かごめ歌」
を作ってその中に隠した・・・「籠目、籠目、籠のなかの鳥は、
いついつ出やる。夜明けの晩に、鶴と亀がすべった。後ろの正面だあれ」

籠目は上記の明智家の桔梗紋を暗示するとされ、これは実際に
日光東照宮にいくつもあります。「籠の中の鳥」が徳川埋蔵金を表し、
「夜明けの晩に、鶴と亀がすべった」の部分は、
東照宮にある鶴と亀の像に朝日があたってできた影のこと。
影の先には有名な、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿の彫刻があり、

三猿の視線の方向に眠り猫の門があります。その先は徳川家の
墓所で、「後ろの正面だあれ」これは墓の後ろに塚があって、
その上には六芒星の印が・・・ どう思われますでしょうか。
しかしこれ、結局は墓の後ろというあたり前すぎる隠し場所なら、
わざわざ手の込んだ暗号にする意味があるんでしょうか。

明智家の桔梗紋
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誰だって、まず最初にそのあたりを探しますよね。お遊びで
やったのならともかく、本気で隠すつもりだったのなら
馬鹿げてると思うのは自分だけでしょうか。まあ、そもそも、
かごめ歌を天海が作ったという確証なんてないんですが。
ただ、地中レーダーの調査では、そこには高確率で土や石
ではない何かが埋まっている、という話もあるようです。

さてさて、TBS系列『日立 世界・ふしぎ発見!』という2000年の
テレビ番組で天海と光秀の書状の筆跡鑑定を行い、それによると、
天海と光秀は別人であるが、類似した文字がいくつかあり、2人は
頻繁に接していた親子のような近親者ではないかと推定できる
ということでした。ここから、光秀の従弟、あるいは
娘婿ではないかという説が出されていましたね。では、このへんで。

日光東照宮奥の院の鶴亀の像