主人と結婚したとき、主人の一家で転居したんです。
ああ、意味がわかりませんでしょう。主人の一家は、70歳代の祖母と、
50代の主人の両親、そこに私が嫁に入ったため、前に住んでいた家が

手ぜまになり、同じ市内から市内のもっと広い家に引っ越したということです。
その家は新築ではなく中古でしたが、築5年ということで、
外観はとても新しく見えたんです。ええ、同居するということは、
婚約したときから話し合って決めていました。
主人の父、義父はバリバリの会社社長で、義母はその会社の重役、
主人もいずれは今の仕事をやめて親族経営の会社に移る予定になっていました。
義父も義母も、気楽にお話できるよい方たちで、
その点で苦労をしたということはないんです。ええ、恵まれていると思います。

おばあちゃんは昔風の方でしたが、いつもにこにこしておられて・・・
はい、私のお話はこのおばあちゃんが中心になるんです。
一家揃いまして、全員で新しい家に入ったときのことです。車を車庫に入れて、
義父が鍵を開けているとき、おばあちゃんが2階の窓を見上げて、
「誰かいるのかねえ」とおっしゃいました。それで私もそのほうを見たんですが、
カーテンが閉まっていて人の姿が見えるということはありませんでした。
「やだなあ、母さん。ここ俺たちが引っ越してきたんだから、
人なんかいるはずはないだろう」義父が言い、
「そうだねえ」と祖母が首を傾げながら答えました。
今にして思えば、これが始まりだったんでしょうね。新居は部屋数が多く、
私たち夫婦は2階、義父母とおばあちゃんが1階になりました。

私は専業主婦をすることになっていましたので、

最初から張り切って掃除をしまくりました。部屋数は9つで、私の実家も

こんなに広い家ではなかったんです。家の中は,ホコリは積もってましたが、

人が汚したような跡はほとんどなかったんです。主人によれば、
新築で建てた家族が3年ほど住んでいたが、その人たちは他県に移ってしまい、
格安で売りに出されていたということだったんです。
主人と義父母が仕事に出てしまうと、家には私とおばあちゃんだけ。
おばあちゃんは足腰が弱らないようにと、午前中は散歩がてらに買い物をし、
午後からは自分の部屋でテレビを見ていることが多かったんですが、
私はできるだけ、お菓子などを持っておばあちゃんの部屋を訪れ、
あれこれお話をするようにしていたんです。

おばあちゃんのお話は楽しかったですよ。テレビが好きなせいか、
芸能人のゴシップなんか、私よりずっと詳しかったんです。そんな話の

中で、おばあちゃんが「この家ね、私たちの他に誰かいるんじゃない」
とおっしゃいまして、「えー、誰かってどんな方ですか?」
「はっきりとはわからないけど、若い女の子、中学生ぐらいかなあ」
「でも、いるはずないじゃないですか」
「それはそうなんだけどね、ときどき目の端に見える気がするのよ」
こう言われてみると、私も心あたりがないわけではなかったんです。
掃除をしているときや、洗濯物を干しにベランダに出たときなど、
ふっと人の気配のようなものを感じるときがありました。
でも、ふり向いてみても、誰もいなかったんです。

それと、若い女の子のキャハキャハという感じの笑い声が聞こえたように

思ったことも。でも、そんなはずないですから、気のせいだと考えるように

してたんです。おばあちゃんは続けて「もしね、誰かいるとしたら、

あんまりよくないものじゃないかって思うのよ。なんとなく

私たちを憎んでるみたいな」うーん、私はそこまではわかりませんでした。
それでも、特別なこともなく3年が過ぎたんです。主人の仕事も、義父母の

会社も特に問題ははなく順調で、家族はケンカ一つしたこともなかったんです。
ただ、おばあちゃんが風邪を引きやすくなって1年に何回か寝込むように

なったのと、私たち夫婦に子どもができなかったことが悩みのタネといえば、

そうでした。特に義父母は、初孫の誕生を心待ちにしていましたから。
それからまた2年がたち、やっぱり子どもはできませんでした。

ええ、主人も私も病院で検査を受けましたが、特に問題はなかったんです。
その頃、午前中の散歩をやめていたおばあちゃんが、久しぶりに一人で

買い物に出て、揺りかごを買ってきたんです。籐製の昔風のものです。

主人はそれを見て「あーおばあちゃん、ごめんね。いつまでもひ孫が

できないから、待ち遠しくてそういうの買ってきたん?」と聞きましたが、

おばあちゃんはにこにこ笑って、「そうじゃなく、私が使うんだよ」

と言って、自分の部屋に持っていかれたんです。でも、いくらおばあちゃんが

小柄だといっても、赤ちゃん用のゆりかごに入れるわけもなく、部屋で自分の

傍らに置いて、何かブツブツ言いながら片手でそれを揺らしていたんです。
それを見て、義父母はボケが来ちゃったんじゃないかと心配してたんですけど、
それ以外の言動におかしなところはなかったんです。
 

ある日のことです。私が外で買ってきたシュークリームを持っておばあちゃんの

部屋にいくと、おばあちゃんはうつらうつらしながら、片手で揺りかごを揺らして

いたんですが、中に小学校低学年くらいの女の子が窮屈そうに入っていたんです。

「えっ!」と声をあげてしまいました。そしたらその子はパッと消えて、
そのかわりのようにおばあちゃんが目を開けました。
「あの、おばあちゃん。その揺りかごの中に女の子いなかった?」そう聞くと、
「あらあ、いるはずがないじゃない。これはね、私のボケ防止なの」
こんな風に答えられました。でも、確かに見たんです。私立小学校の

ような吊り紐のついた灰色のスカートと、白いブラウスを着た女の子・・・
さらに1年がたち、やはり私たち夫婦には子どもができないままで、
おばあちゃんは風邪をこじらせてから、ずっと寝込んでいたんです。

トイレには起きて行くことができましたし、食餌も自分でとれたんですが、
私はなるべく、おばあちゃんのそばにいるようにしてたんです。
布団を敷いていても、その傍らにずっとあの揺りかごが置かれていました。

ある日、おばあちゃんの部屋から咳き込む声が聞こえ、キッチンにいた

私があわてて行ってみると、おばあちゃんが布団に上半身を起こして、口を

おさえてえづいていました。「おばあちゃん大丈夫」と駆け寄ろうとしたとき、
揺りかごの中に赤ちゃんがいたんです。たぶん1歳前の、まるまる太った。
私が立ちすくんでいると、おばあちゃんは荒い息で「壺がいるねえ」

と言ったんです。ええ、その夜、おばあちゃんが壺の絵を書きまして、
それと同じものを主人が骨董屋から買ってきたんです。
土製の40cmほどの高さの、けっして高価ではない田舎風の壺でした。

翌朝、おばあちゃんの部屋に行くと、壺の口には和紙が貼ってあり、
おばあちゃんは「これ、庭の日当たりのいいところに深く埋めてもらっておくれ。
中はけっして見ないようにして。私が死んだら掘り出して開けていいから」
どう答えたらいいかわかりませんでしたが、主人に話してそのとおりに

してもらいました。それから3ヶ月後の冬、おばあちゃんは風邪から

肺炎になり、あれあれという間に弱って、入院先の病院で眠るように

亡くなったんです。お葬式を済ませ、初孫の顔を見せられないまま逝って

しまわれたんだと思うと、申しわけない気持ちになりました。そのときは

雪が積もっていましたので、翌春、庭に埋めた壺を掘り出してみました。

和紙の封印は何十にもなっていてはがれておらず、中を開けてみると、ころんと

干物のようなものが転がり出て、中身はそれだけでした。

 

「これへその緒じゃないか」義父がそう言いました。

私の妊娠が判明したのはそれから1ヶ月後のことだったんです。