今晩は。さっそく話を始めさせていただきます。私は、子どものころ、
小学校5年生まで山陰地方の山あいの町に住んでいました。
具体的な名前は言わなくてもいいですよね。その土地はもちろん
今もありますから、ご迷惑がかかるかもしれません。
私が2歳のころ母が離婚をし、私を連れて実家に帰ったんです。
離婚の原因は聞いていませんが、父はまだ健在です。
でも、会うことはないですね。実家の祖父母は小さな酒屋を営んでいて、
私には優しかったです。ただ、2人とも私が5年生になるまでに
亡くなってしまったんです。祖父が62歳で、祖母がその2年後に
60歳で亡くなりました。どちらも病死で、祖父は腎臓病、
祖母は癌が全身に転移して、とても苦しんで亡くなったんです。

それで、母娘2人になった私たちはその町を離れた・・・
学校の友だちと分かれるのは悲しかったですが、その町を出ること自体は、
私は内心よろこんでいました。その町の雰囲気が嫌いだったんです。
はい、町の空はいつも灰色の雲に覆われてた印象があります。
陽がささない暗い町でしたね。そのせいではないと思いますが、
近所でも若くして亡くなる人が多かったんです。
私の祖父母もそうでしたが、60歳を少し過ぎたくらいで
病気で死んでしまう。いえもちろん、70歳、80歳という方もおられ
ましたけど、数は少なかったと思います。そのぶんお年寄りは
大事にされていました。最近になって、インターネットでその町の
人口動態などを調べてみたんです。そしたら・・・

日本の平均、それから周辺部の市町村と比べて、平均寿命が10歳近く
短かったんです。理由はわかりません。町には大きな病院もありましたし、
検診なども普通に行っていました。それで、これも理由はわからないんですが、
平成の町村大合併ってありましたでしょう。あのとき、その町は
どことも合併しなかったんです。周辺の自治体のほうから
断られたみたいなんです。とにかく陰気な町でした。
・・・サイレンの話をしたいと思います。その町では、ごくたまに、
そうですね、3ヶ月に一回ほどの頻度で、サイレンのような音が響くんです。
せまい町です。鉄道の駅はなく、国道が一本通った左右に1kmほど
商店が続いてて役場などもあり、それでほぼすべてなんです。
民家は、山すその斜面にへばりつくようにして建っていました。

ですから、サイレンの音は町中どこでも聞こえたんじゃないかと思います。
え、どんな音かって? そうですね、今でも耳をすますと聞こえてくる気がします。
始めは低くうなるように始まって、やがてだんだんに「おおおおお」と
高くなっていく。でもそれ、自治体が鳴らしていたというわけではないんです。
当時はわかりませんでしたが、実際はサイレンではないんです。
はい、そのことは話の最後に出てきます。それで、そのサイレンについて
話すことは、町のタブーとされていました。サイレンの音が
聞こえているときに、「あ、鳴ってる」なんて言っちゃいけないんです。
私もよく祖父母にたしなめられました。聞こえていても聞こえないふりを
してなくちゃいけない。まるでサイレンの音なんてしないみたいに。
どうしてかって? 当時はもちろんわかりませんでしたが、

あれを見た今なら、なんとなく想像がつくような気がします。
町の人はみな同じように、サイレンが聞こえても無視していました。ただ、
お年寄りの中には、サイレンが始まるとそっと耳をふさいだり、手を合わせて
お祈りしたりする人もいたんです。そういう場面を何度か目にしています。
・・・水槽の話をします。その町では、水槽で生き物を飼うことはよくないと
されてました。虫かごのようなものも忌まれていましたね。
これも理由はわからないんですが、どうしても水槽を置かなくてはならない
場所ってありますよね、例えば学校。理科の光合成の実験のために、
緑の水草を入れてある水槽とか。そういう場合、水槽の中に「ほうこ神社」
からいただいた榊の枝を沈めることになっていました。え?ほうこ神社ですか。
その話も後でしますが、どういう漢字をあてるのかはわかりません。

あれは4年生のときでしたか、学校に、別の市から赴任した新しい
理科の先生が来たんです。はい、理科専科って言うみたいですが、
担任を持たず、各学年の理科の実験だけを行う先生。その先生の最初の
授業のとき、「何でこんなの入れてるのかなあ」と言って、理科室の
水槽から榊の枝を取り出されたんです。生徒の中には、それを入れておくのが
きまりであることを知っている者も多かったんですが、新しい先生に遠慮して、
誰も何も言いませんでした。その翌日です。1時間目が理科の授業で
理科室に行ってみると、先生が水槽の前に立ちつくしていたんです。
蛾、カナブン、大きなムカデ・・・水槽の中には無数の昆虫が浮いてました。
それだけでなく、1m以上はある青大将か何か、蛇が底に沈んで死んでたんです。
でも、水槽にはガラス蓋がしてあって、蛇が入る隙間なんてないのに。

おそらく校長に言われたんでしょうね。次の時間からは、水槽の中に
榊の枝が戻っており、それ以来異変は起きなかったんです。
ほうこ神社の話をします。山のはいり口にある、町で唯一の神社です。
戦後に創建されたということで、まだ新しく、柱は白いコンクリ製で、新興宗教の
建物のようにも見えました。年に1回、秋に祭礼があり、私も物心ついたときから
参加しています。他の地域の神社のように、お神輿が出るとか、
夜店が並ぶとか、にぎやかなことは何もありません。ただ、神社の建物を
前にして神職が祝詞を唱え、それが終わると他の参列者がいっせいに
深々とお辞儀をするだけでした。はい、参列者は町長をはじめ助役などの
役場の者、町会議員は全員参加していたはずです。神社の参道にあたる場所は、
かなりの広さに整地されていて、町民はできるだけ参加するようにと

言われていたんです。そうですね、当時、町の人口は3000人ほどだったと
思いますが、その半分以上は神社の前に集まっていました。
平日でも、仕事を休んでくる人も多かったです。神職が祝詞を唱え始めると、
決まってサイレンが鳴り出します。それもすぐ近く、神社の裏手のほうから
聞こえてきたんです。サイレンを耳にすると、集まった町の者はみな体をふるわせ、
おびえた顔になり、でも、それについて何かを言う人はいませんでした。
町長らは土下座に近いような座礼、私たちは立ったまま深々と一礼すると、
サイレンの音はおさまりました。・・・町の歴史について少し話したいと思います。
これは、後になって私が調べたことです。町では話す人はいませんでした。
太平洋戦争中、その町には旧日本軍の特殊研究所があったようなんです。
場所は、ほうこ神社の拝殿がある場所の裏手。

何の研究をしていたかまではわかりませんでした。ともかく、ほうこ神社は、
その研究所の跡地を祀るため、昭和30年代に建てられたということなんです。
はい、終戦間際に、どうしてそこにあるとアメリカ軍が知ったかは不明ですが、
研究所は徹底した空爆を受け、跡形もなくなってしまったんです。
町の他の地区に被害はなく研究所だけでした。そこに、戦後になって新たに
ほうこ神社が建てられたんです。・・・母のことを話します。
祖父母が亡くなり、母は私をつれて大阪に出ました。多少の遺産はありましたので、
母はアパートを借り、私を育てながら働いたんです。そのうちに、
母はもうその町に戻りたくなかったんでしょう。家の墓所を大阪の市民墓地に
移してしまったんです。ですから、私が町に足を踏み入れたのは、
その後2回だけです。母には、折にふれ聞いたんですよ。

「あのサイレンは何だったのか」を。でも、母は話したくないようで、
いつもはぐらかすように話題を変えました。ただ、一度、
「あれはね、ほうこ様が叫んでおられるんだよ」とだけ答えてくれたんです。
母は60歳の誕生日のすぐ後、祖母と同じ場所に癌が見つかり、それから

3ヶ月で亡くなりました。私は・・・母と同じように結婚に失敗し、2歳の娘を

育てていたんです。そうですね、母の境遇そっくりでしたが、私には帰る実家は

ありませんでした。母の遺産といってもわずかなものでしたが、私と娘のために

貯金をしてくれていて、それを相続するため、娘を施設に預け、母の弟の人に

会いにあの町を再訪したんです。驚くほど過疎が進んでいました。町に新しい

建物はなく、商店はみなとうに商売をやめ、シャッターを下ろしてました。
ただ、どういうわけか病院が2つに増えていまして、新しいところは国立です。

人口は千人台にまで減っているのに。母の弟、叔父さんとの話はすぐに済みました。
「姉さんはこの町を出てよかったが、それでも早死には逃れられんかったか」
叔父さんはそう言ってました。・・・最後に、ほうこ様の話をします。私はその町を

訪れたとき、これが最後だからと考え、ほうこ神社に行ってしまったんです。
昔から疑問に思っていたサイレンのことに決着をつけたかったんだと思います。
車で着いたほうこ神社に参拝者の姿はなく、神職も見あたりませんでした。
社殿の扉は固く閉ざされており、賽銭箱すら出ていません。ふと、神社の裏、
研究所があったという場所に回ってみようか、そう思ったときです。
あたりの空気がしんと冷えた気がしました。裏手へ続く草深い道から、
何か桃色のものが出てきました。人・・・なのかどうかもわかりませんが、
手足は2本ずつあり、胸に真っ赤な幼児のようなものを抱いていました。

そのものはどちらも服を着ておらず、桃色に見えたのは、全身の皮膚が

はがれているせいだとわかりました。ところどころ桃色が濃くなっていてるのは、
その部分から血膿が流れているためです。私は逃げ出そうとしましたが、
体が動きませんでした。頭の中に「ほうこ様」という言葉が浮かんできました。
ほうこ様は足を引きずるようにしてゆっくりと私の前まで来ると、
胸に抱いていた子どもを前に突き出すようにして、口を開きました。その顔には
目も鼻もなく、ただ崩れた肉の塊だけでしたが、それが横に裂けるように
ぱっくりと開き、顔の半分ほどもある空洞から「おおおおおおおおおおおおおお」
という叫びが出てきたんです。「サイレンだ!」と思ったとき、ガクガクと足が

動きました。なんとか後ろを向き、這うようにして必死に逃げました。
私の背後では、「おおおおお」というサイレンの音がいつまでも響いていたんです。

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