「人間の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である。
その中で、最も古く、最も強烈なのが未知のものに対する恐怖である」
           (H・P・ラヴクラフト『文学と超自然的恐怖』)


ということで、今日は怖い話ではありません。上記の言葉はアメリカの

怪奇小説家、クトゥルー神話の生みの親であるラブクラフトの、
恐怖についての解釈なのですが、これについては「そうだなあ」と思う反面、
「本当にそうだろうか」という疑念を感じることもありました。


・人間の持つ感情の中で、最も強いものが恐怖
・その恐怖の中で、最大のものが未知への恐怖
という2つの命題は、証明できないのではないかという思いがあったからです。

 



この話題を取り上げてみます。
「マウスが天敵キツネのにおいと電気的刺激の二つの恐怖に同時に直面した場合、
生まれながらに持つ「先天的な恐怖」に対する反応が優先され、
キツネのにおいを回避する行動を取ることが分かったと、
関西医科大付属生命医学研究所のチームが19日付の米科学誌セルに発表した。

研究チームは実験で、マウスにスパイスを嗅がせて電気的な刺激を与え、
「後天的な恐怖」を覚えさせた。その後マウスを迷路に置き、
一方の道に同じスパイスのにおいと餌、もう一方にはキツネの

分泌物に似たにおいと餌を用意し、どちらに進むかを観察。9匹中6匹が

スパイスの方を選び、3匹はどちらにも進まなかった。」(時事通信)

これは前にも取り上げたことのある小早川 高・令子夫妻(分子生物学)
のチームによる研究で、令子氏は、このところ精力的に論文を

出されている女性科学者です。

 

実験用マウス


これを読んで疑問に思われることの一つは、マウスがスパイスとともに

電気ショックを与えられ、それによって感じる恐怖は、まあ条件反射

ですよね。確かに「後天的な恐怖」で間違いではないでしょうが、


キツネのにおいというのは、はたして「先天的な恐怖」なのかどうか

ということです。氏のこれまでの研究の流れというのは、

まず「マウスが恐れるにおい」の開発、次に「その臭いに対して

慣れ効果が生じないこと」の解明、この延長上に、今回の研究があるようです。  

実験室で生まれ育ったマウスというのは、
実物のキツネに遭遇した経験はないでしょうし、
また、繰り返し嗅いでも慣れ効果が生じないということは、
脳にその臭いに反応する部位があると考えられ、
これはマウスにとっての先天的な恐怖である、と言えそうではあります。

 

H・P・ラブクラフト



では、人間にとっても先天的な恐怖と考えられる「暗闇への恐怖」、
あるいはラブクラフトが言及した「未知への恐怖」などは、
先天的な恐怖と言えるのでしょうか。蛇を怖がる人が多いのは

どうなんでしょう??(この回答は最後にあります)
それを解明するためには、数ある恐怖の一つ一つについて、
実験を行う必要があるのでしょうか。

もちろんそれはできるでしょうが、現在の研究の流れとしては、
「脳の働く部位が感情(その他)を決定する」となってきているのです。
どういうことかというと、人間の感情というのは、怒り、悲しみ、喜び・・・
さまざまな出来事において、これらが入り混じっており、

心理学的にきちんと分類するのは難しかったんです。

 

例えば恋人と別れたとして、そのときの感情は

悲しみや怒りなどが混在したものになりますよね。
うまく言葉では表現ができません。しかし、そのように感情の側から考えず、
脳のこの部位が働いたときにはこの感情が生じている、とすることで、
客観的、定量的に研究することができるようになってきているんですね。

 

感情の分類

 



このようなニュースもありました。
「幸福を強く感じる人ほど右脳の特定部位が大きいことを、
京都大医学研究科の佐藤弥准教授らが突き止めた。
幸福感と脳の構造の相関を解明したのは初めて。英科学誌に20日発表した。
心理学では幸福感の強さを質問用紙で数値的に計測できるとされる。

佐藤准教授らは、質問結果と磁気共鳴画像装置(MRI)で測定した、
脳の各部位の体積で相関を調べた。10~30代の男女51人で実施。
質問用紙を使い、幸福感について尋ねた。質問への回答を数値化し、
各人の脳の各部位の体積と比べた結果、幸福感が強い人ほど右脳の内側にある
「楔前部(けつぜんぶ)」が大きいと分かった。」(京都新聞)


楔前部というのは、下図の黄色の部位のことです。

この大きさは、もちろん後天的な発達もあるでしょうが、
大きくは遺伝的に決定されていると思われます。
とすれば、生まれながらに幸福を感じやすい人と、そうでない人とが

いることになります。もしこれが正しいとしたら不公平ですよね。


ちょっとしたことにも幸福を感じ、強い幸福感にひたれる人と、
そうでない人とでは、かなり人生が違ってきてしまうのではないでしょうか。
上記引用の佐藤教授は、

「幸せの意味は古代の哲学者以来、考えられてきたが、
脳科学的な視点で幸福の一端を解明できた。」と話されています。
これはけして哲学的な考察を否定するコメントではないでしょうが、
「幸福とは何か」をつきつめて考えるよりも、
脳のこの部位が感じ取るかものが幸福である、
としたほうが、研究が進めやすいのは確かでしょう。

 



また、このようなニュースも。
「人が絵画や音楽を「美しい」と感じたとき、脳の一部分の血流量が増加する。
英ロンドン大神経生物学研究所の石津智大研究員=神経美学=のチームが、
米専門誌などに発表した研究結果が注目されている。 」(日経新聞)

いやあ、美的な感覚までこのように分析されてしまうのは、


ちょっと大変という気もします。これに関わるのは、脳内の「内側眼窩前頭皮質」
という部位のようですが、もし研究が進めば、この部位が発達していない人は、
芸術家には向かない、ということになってしまうのでしょうか。
これは困りましたね・・・しかし、そう単純なものでもないような。

さて、こういう研究は、日進月歩で進められています。
これまで脳科学が難しかったのは、人体実験は基本的にできませんし、
動物実験でも倫理的な制約が大きかったのが、fMRIの発達により、
脳の血流の流れがかなり細かくわかるようになったことが大きいのです。
この調子で世界中で研究が進むと、脳のどの部位が何を担当しているかの
マッピングが詳細に解明されていきそうです。

 



さてさて、最初の話に戻って、小早川夫妻の研究ですが、
統合失調症の患者に処方される向精神薬をマウスに投与したところ、
後天的恐怖への反応が弱まった一方、先天的恐怖への反応が強くなりました。
小早川高氏は「人間でも同様の作用が起こると推測され、
精神疾患の治療に役立つ可能性がある」と話されています。

 

自分としては、特に、後天的なものである心的外傷およびその、
後ストレス障害治療などに役立つ可能性が高いような気がしますね。最後に、

内容で少し触れましたが、われわれの中に蛇を怖がる人が多いというのは、
どうやら先天的な恐怖である、という結果の出ている研究が多いようです。