僕の名前は西脇といいまして、サッカー専門誌の記者をやってます。
大阪の大学を卒業して東京の新聞社の大阪支所に就職し、そこの
スポーツ局でサッカーのコラムを書いたら評判を呼んで、それが縁で
サッカー専門誌に引き抜かれてそこでライターをやってるんです。
今年で39歳、お恥ずかしい話ですがまだ独身なんです。それで、
今年の8月ですね。およそ3年ぶりくらいで郷里に里帰りしたんです。
場所は明かさなくてもいいですよね。江戸時代から続く大きな炭鉱の
あったところと言えばわかると思います。帰省した理由は、僕、
高校時代はサッカー部に所属していて、そのときの監督が亡くなったと
聞いたからです。僕は2年生からレギュラーでしたが、3年の最後の

大会では県大会の決勝まで進んだものの0-1で負けてしまったんです。

僕の両親は、炭鉱に勤めていた父は僕が2歳のときに炭鉱の事故で死亡し、
母はその31年後、9年前に病気で亡くなっています。
母の死後、郷里の家は処分してしまってもうないので、僕は駅前のホテルに
泊まる予定にしていました。で、恩師であった監督の葬儀は、葬儀場では
なく菩提寺でとり行なわれることになっていて、僕は焼香を済ませたら
こちらの地方のJリーグのチームを取材して帰るつもりだったんです。
暑い盛りで、お寺の木々の緑は深く、うるさいほどにセミが鳴いてましたね。
葬儀は寺の大広間で行なわれたんですが、参列者の中には知っている顔が
ちらほらありました。高校のときのサッカー部のチームメイトです。
ずっとこの地方で生活してる者もいましたが、僕のように大阪や他の
大都市に出ている者も多かったです。久しぶりに懐かしいメンバーが

集まったので、当然のように酒宴の話が出て、その後、駅前の居酒屋に

くり出してサッカー部の同窓会をやろうって話になりました。
集まったのは6人でしたか、あの頃の3年のレギュラーの中で葬儀に来て
いないのは1人だけでした。それぞれ様々な職業に就いていて、サッカー
関連した仕事をしているのは僕だけでした。で、当日来たメンバーの中で、
田口ってやつがいたんです。当時、僕が最も仲がよかったやつです。
僕はフルバックでしたがそいつはフォワード。グラウンドでは最も位置が
離れてましたが、すごく馬が合ったんです。でも、僕が大阪の大学に
出てからは没交渉になりました。住んでいる地域が違ったせいもありますが、
それだけでなく、当時の部のマネージャーをめぐっての恋敵でもあったんです。
この勝負は僕の負けで、君子さんと言いましたが、田中はマネージャーを

ものにし、フラれた僕は大阪の大学を目指すことになったわけです。
遺恨を持つことはありませんでした。田中とは仲がよかったし、正々堂々の
勝負で負けたんだからどうしようもないですよね。その後、田中は進学せず、
家業の家具屋を継ぐことになり、数年後に君子さんと結婚したという
葉書が届きました。でね、この田中ですが、久々に会ってみて、様変わり
しているのに驚きました。ええ、あまり良くないほうに変わっていたんです。
僕がサッカー専門誌の出版社に勤めていると知ってるらしく、最初はサッカー
日本代表の話などをしていたんですが、ささいなことで言い争いになり、
自分の前にあった酒のお銚子を腕を振って倒すと、そのまま店を出ていって
しまったんです。言葉遣いも粗暴な感じで、高校の頃の人懐っこい態度は
かけらもなかったんです。他のメンバーは、「まあ怒るな。田中はどうも

ホームセンターや大手のチェーンに押されて、家業が上手くいってないみたい
なんだ」そう慰められました。「だいぶ借金があるみたいだ」って。
よっぽどやつの携帯に電話をかけて、呼び戻そうかと思ったんですが、
番号を知らなかったし、他のやつらにも止められたんです。その後は
気分を変えて飲み直し、ホテルに戻ったときには12時を回ってました。
それからすぐに寝て、翌日は朝早く起きて地元のJ2チームの取材に行ったんです。
取材は午前中で終わりましたが、いい記事が書けそうな感触はありました。
で、まだ時間的には、予約していた帰りの列車時間までもう3時間くらいあり、
どうしようかと迷ってたんですが、鉱山資料館に行ってみようと思いたちました。
ええ、この地方で1990年代まで稼働していた炭鉱の歴史を展示して
いるものです。ここでは1980年代に起きた炭鉱の大火災に関する展示もあり、

そのときの事故で、父親は僕が2歳のときに死んだんです。全部で死者15人、
負傷者多数の大事故だったんですよ。そこには親父の顔が写った写真も
展示されています。小さい頃に親父を失ったわけですが、そこで親父の顔を
覚えたんです。資料館にはバスで行きました。わざと古風な作りにした
建物ですが、展示物は多く、鉱内を模したジオラマなどもありました。
人気はなく閑散としていましたね。まあ、今どき鉱山の歴史に興味を持つ
人なんて少ないんだろうと思いました。ひととおり館内を見て回って、
そろそろ駅に戻ろうかと思って出口に近い一室に入りました。そこでは当時

使っていたシャベルやツルハシ、鉱夫の身の回り品や弁当などを展示して

いたんですが、大きな掘削機械の陰にうずくまっている人がいたんです。その人が

立ち上がって、それが誰か、ずっと会っていなかったのに一目わかりました。

はい、サッカー部のときのマネージャーで、今は田中の奥さんの君子さん
だったんです。高校時代は短期間ですがつき合っていたこともあります。
あまりに意外な出会いだったため、とっさに言葉が出ませんでした。
「やあ、驚いたな。君か。どうしたんだ、こんなとこで。地元なんだし、
何回も来たことがあるだろ」 「西脇くんがこっちに来てるって主人から
聞いたので、ここに来たらもしかしたら会えるかと思って」
「それにしても久しぶりだなあ。ええと前に会ったのは俺の母親の葬儀の
ときか」 「ええ、9年前」 「そうか全然変わらないね」
「あらお世辞が上手くなったわね。もうすぐ40歳のおばさんよ」
ここまではなんとか言葉が出てきましたが、その後は何を話していいか
わかりませんでした。「ああ、昨日葬儀で田中と会ったよ。何だか荒れてたな。

「そう。・・・仕事のほうがあんまりうまくいってないのよ。そのせいで
最近はどこに行ってもトラブルを起こしてるみたい」 「そうか・・・
やっぱり商売はサッカーのようにはいかないか。試合で点を取るのは

天才的に上手かったのにな」 「資本力が違うから大型店には
太刀打ちできないのよね。向こうは仕入先も多様だし」 「やつだったら
サッカーのプロになってもかなりのとこに行けたのにな。残念だった。
俺なんて未だにサッカーにしがみついてる。といっても、しがない
ライターだけど」 「西脇くんの記事は読ませてもらってるわ。
私は海外サッカーのことは詳しくないけど、話の本筋と関係がないギャグの
部分が西脇くんらしいと思った」 「ああ、ありがとう」
こんなやりとりになったんです。でも、それ以上の話はできませんでした。


僕の列車時間がせまってたからです。「もう時間だから駅に行くよ。
会えて楽しかった。田中のやつによろしく。仕事がうまくいくといいね」 

「ええ、ありがとう。お元気で」ということで、僕はタクシーを拾って駅に

向かいました。彼女は資料館の入口の前でずっと見送っていてくれてました・・・
その日のうちに大阪に帰りました。雑誌社に顔を出し、今日取材した原稿を
パソコンに打ち込み、マンションに着いたのは11時過ぎでした。
真っ暗な部屋の灯りのスイッチを押したとき、ああ、家族がいるのも悪く
ないのかななんて思ったんですよ。そしてその夜。夢を見たんです。
気がつくと、僕は暗くてせまいところにしゃがみこんでいたんです。
壁はごつごつした岩がむき出しで、ここは鉱道の中じゃないかと思いました。
鉱道の通路はあちこち枝分かれしてしているようで、どこも遠くのほうで


ヘッドランプの光がチラチラするのが見えたんです。ここはどこだ?
僕はなんでこんなとこにいるんだ?炭鉱はとっくに閉鎖されてるのに。
「逃げろ、火事だぞ!」大きな叫び声が聞こえ、僕は立ち上がって走りました。
焦げ臭いとどす黒い煙が漂ってきたんです。ああ、父親が亡くなったのも
こんな中でのことだったのか? そう思いました。とにかくここを出ないと
死んでしまう。足場の悪い中をやみくもに走りました。そして左右に
分かれた道に突き当たったんです。どっちに行けば外に出られる? そのとき、
「右よ」という声が聞こえたんです。昼にあった君子さんの声に似ていました。
僕は迷った末に・・・左に向かって走ったんです。やがて明るい日の光が見え、
外に出ると同時に目が覚めたんですよ。どうして言われたとおりにせず、
左に向かったのかは自分でもわかりません・・・