えっと俺が小学校5年で兄が中2のときです。
これは親に聞いて確かめたんで間違いないです。
秋の連休に、家族で温泉に1泊の旅行に行きました。九州某県のです。
でねえ、そのときの記憶ってあんまりないんですよね。
どんな風呂だったかとか、食事がどうだったかなんてのは覚えてないんです。

ただ鮮明に残ってるのが、2日目の午前中、もう帰るって前に見学した

「地獄」のことです。ほらよく、いろんな温泉地にあるじゃないですか。

硫黄が地面から露出してて、卵が腐ったような臭いがして、
あちこちから蒸気が吹き上がっているような地形。
そういうとこを〇〇地獄とか名づけて、公開してるところがあるでしょ。
あれってけっこう危険なんですよね。

窪地に致死量の硫化水素が溜まってるなんてこともあるそうです。

で、その温泉地の地獄なんですが、崖下にあったんです。それを上の遊歩道から

見下ろす形で見学する。崖は30mくらいの高さがあったようなんで、

これだとガスを吸ってしまうおそれはほとんどないわけです。
ただ、落ちてしまう危険はありますけどね。
でね、そのときは、宿の従業員が宿泊客を案内して、

「あれが血の池、あれが針の山」と説明してくれました。今でもありますよ。

ネットで検索したら画像もあって、けっこうちゃちいもんでした。

広く感じたのは、やっぱ自分が子どもだったからなんでしょうね。それで、

手すりギリギリのとこから下を見てたら、亀の甲羅みたいな石があったんです。

大きさは1mくらいかな。水族館で見たウミガメよりは小さいけど、
 

それでも亀としてはかなり大きいですよね。ただ、本当に亀かは自信が

なかったんです。まず甲羅にあの、亀甲模様がなかったし、それに色が薄緑で、

周囲の岩や瓦礫と同んなじだったんです。だから、単に亀に似た石かも

しれないって。ええ、手も足も頭も出してない、甲羅だけの形ですよ。で、

そばにいた兄に聞いたんです。「兄ちゃん、あれもしかして亀じゃないか」って。
「どれだよ?」兄は小煩そうな感じで答えまして。
うーん、兄弟仲が良くないってことはなかったですけど、
とにかく兄は忙しくって。中学校の野球部でピッチャーをやってて豪速球を投げ、
中2の段階ですでに高校のスカウトとかが見に来てるレベルでした。
だから合宿や試合であんまり家にいることがなくて。
家にいるときは飯食って寝るだけだったから、ほとんど話もしなかったんです。

その旅行も、大きな大会で兄のチームが優勝して、監督が休みをくれたんで、
急遽家族で計画したものなんです。「ほら、ここの俺が立ってるところの真下」

亀は崖にぴったりくっつくようにして、こっちに首があるほうを

向けてるように見えました。「お前な、この下は地獄なんだぞ。温度高いし、

有毒ガスも出てるし、生き物がいるわけない」 「んー、じゃ亀に似た石かも

しれない。この下だよ。わかる?」  「ぜんぜんわからん」
それで、案内の人の目を盗んで小石を拾い、そっと手すりから落としました。
で、すぐ近くに落ちたんですが、亀は微動だにせず、やっぱ石かなあって思って。
だけど、そっから落とせば近くにいくことがわかったんで、
今度は石のかわりに、そのとき食べてたハイチュウ、アメの一種ですけど、
それを包み紙をとって落としてみたんです。

そしたら、やっぱ亀のすぐ前に落ち、瓦礫にまぎれて見えなくなりました。
「あ、もったいないことしたな」って思ったとき、亀の首が出るはずのところから、

白い細い手が出たんです。間違いなく見たと思います。でね、前の石の間を

さぐってハイチュウを見つけたのか、こぶしを握った形で引っ込みました。

俺はもう大興奮して、「兄ちゃん、兄ちゃん、今の見たか? 手、手が出たぞ」って。
「あー、お前が石落としたのは見たけど、手? 人の手のことか?
見てないし、そんなの出るはずないだろ」こんなふうに言われて。

当時はね、兄の言うことは絶対でしたから。母親も兄の試合や

強化合宿のたびに車で送り迎えして、家族全体が兄中心に動いてたようなもので。

そのうちに、案内の人が先に進んで、その場を離れたんです。
俺は最後までその亀の甲羅から目を話しませんでしたけど、

もう手は出なかったし、なんだか見たことに自信もなくなってきたんですよ。
ま、そんなことがあったんですけど、これはずっと忘れてたんです。今年になって、

あの台風の日のことがあってから思い出したんです。・・・順を追って話して

いきますね。兄は中3のときは、全国大会まで行って準優勝したんです。

それで、他県の甲子園の常連校にスカウトされて家を離れちゃいました。
寮生活ってことです。母親はついていきたいような感じでしたけど。
でもね、高校に入って伸びなかったんです。うーん、野球の力がってより、
体が大きくならなかったんですね。170cm台の前半くらい。たまに帰省して

きたとき、比べたら俺のほうが大きかったですよ。だから高校のチームでは

2番手ピッチャー止まりで、チーム自体も、兄の代は県予選で負けて、甲子園

には行ってないんです。それでも、大学でも野球を続けて、実業団に入りました。

でね、今年の7月のことです。俺が小5のときから15年たってます。

仕事で外回りをしてたんですが、台風が近づいてるってことで、かなりの雨が

降ってました。風もだんだん強くなってきて、傘があおられて役に立たなくなり、

どっか屋内に入って雨宿りしようと、住宅街を小走りに急いでたんです。
空が一段と暗くなって、稲妻が光りました。ドザッと音を立てて雨も激しくなり、
そしたら、俺がいた5mほど前の側溝の蓋がバカンと跳ね上がったんです。
コンクリ製の何十kgもあるやつが、その一枚だけ。
穴になったところから、どっと泥水が吹き上げてきました。
靴が水浸しになりそうなんで、道路の中央寄りによけたんですが、その穴から、

ズッと亀の甲羅が出てきたんです。模様のない、岩みたいな質感の。ただ、

小5のときは上から見たんでわからなかったですが、首のところに黒い穴があって。


そこから、坊主頭の子どもが顔を出したんです。見覚えがあるというか、
すぐにわかりました。中学校のときの兄の顔です。野球で全盛期だった頃の。
雨に濡れた真っ白な顔で、白目を剥いてました。何も見えないだろうに、
俺のほうに顔を向けて、「今、死んだ」って言ったんです。
激しい雨と風の中でも聞こえたんで、実際の声じゃなく、

頭のなかで響いたのかもしれません。俺はその場に立ち尽くして、そしたら

兄の顔は引っ込み、甲羅自体も下に潜っていって、真っ黒い水がどっと吹きあげて。

怖くなって走りました。で、やっとコンビニを見つけてそこに入って、

傘がダメになってたんで、ビニール傘を買って、トイレを借り、今見たものの

ことを考えたんです。このときもまだね、温泉の記憶は戻ってはいなかったです。

「死んだ」って、兄が死んだってことなんだろうか、それとも・・・

その後、1時間くらいして携帯に実家から電話がありまして、
「兄が大変なことになって病院に運ばれた」って内容でした。もう兄は野球は

引退して、地元に戻って建設会社で働いてたんですよ。とにかく上司に連絡し、

電車で地元に戻ったんですが、途中で「兄が亡くなった」って。

病院に駆けつけましたら、両親がベッドの脇で泣いていました。兄は体にはまったく

ケガはなかったんですが、顔色が紫に変色し、血管がドス黒く浮き出ていて・・・

兄の会社の責任者らも来てて、その説明によると、

水道管を通すために地下に入っていたところ、こっちでも

台風の影響で風が強まってきて、作業を中止して引き上げるという矢先に、

ガスが発生して倒れたということでした。兄の他にも2人が影響を受けたものの、
その2人は比較的軽く、現在治療中だって。しばらく兄の遺体の脇に立ち尽くして、
その間に、あの温泉地獄の亀のことがだんだんに頭によみがえってきたんです。