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今回はこういうお題でいきます。オカルト史的な内容ですね。
さて、みなさんは古神道と復古神道の違いはご存知でしょうか。
まあ、かくたる定義はないんですが、いちおう、古神道のほうは
江戸幕末の国学隆盛期に、賀茂真淵や本居宣長らの国学者が

まず「古道説」を唱えて体系づけました。これは仏教などが
後代に伝来してくる以前の、日本古来の惟神(かむながら)の
道のことです。『古事記』などの古文献から、古代の日本人の
考え方や文化を明らかにしようとしたものですね。

復古神道のほうは、平田篤胤や本田親徳らが、儒教や仏教を強く
排斥して、日本古来の純粋な信仰を尊ぶために考え出したものです。
この考え出したという点に着目されてください。自分は以前、
「古神道は再現できるか」という記事を書きましたが、
結論としては再現できないだろうと思っています。

大石凝 真素美


同時代の文献がほとんどなく、「卑弥呼が鬼道と呼ばれる
祭祀を行っていた」くらいのことしかわからないんです。
ですから、復古神道の多くの内容は、幕末から明治初期に
かけて独自に考え出されたものなんです。

復古神道では、多くの教派で、「言霊」や「数霊」を使って
『古事記』や『日本書紀』を読み解くことが行われましたが、
眉唾な内容としか言いようがないです。また、古代の様式を
まねた偽書も、あれこれつくられています。

現代の天津金木
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さて、明治元年(1868年)、明治新政府は「王政復古」
「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、
それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止しようと
神仏分離令を発しました。これにより、神道ははっきりと
仏教よりも上のものと規定されたわけです。

その後、たくさんの神道系の新興宗教(教派神道)が成立し、
中には天理教のように現在まで続いているものもあります。
また、個人としての神道修行者も多数現れました。
今回はその復古神道を標榜する一人物のエピソードを
見てみたいと思います。

とりあげるのは大石凝 真素美(おおいしごり ますみ)。    
男性です。ご存知でしょうかね。望月春雄という名前から
改名したようです。自ら、稗田阿礼(古事記編纂者の語り部)
の生まれ変わりであると称したという資料もあります。
1832年生まれ。

山岡鉄舟
キャプチャ

1853年、黒船が浦賀に来航すると、望月は幕府の
無能を歎き、神風を起こす大神人を探し求め、妻子を
連れて旅に出、山本秀道という神道家の宅に身を寄せて
師事し、さまざまな神道の修行を行いました。

特筆するべきエピソードはこれです。明治5年、真素美は
盟友の太玉太観と上京し、山岡鉄太郎(鉄舟)の家をを訪ね、
その目の前で誓火(うけひ 火の中に手を入れ、誓約を
吉凶、正邪、成否などを判断する)の実験をしますが、



太玉太観は失敗し、片手を焦がして失ってしまいます!!
大石凝は謹慎しますが、山岡鉄舟は、太玉太観の動じない
態度に感心したと言われます。明治23年、伊勢神宮の改革が
行われますが、真素美はこれを強く批判し、「神宮の正殿は
炎上せむ」と予言します。

明治31年、実際に伊勢神宮が炎上。それ以前にも他の予言が
成就したことがあり、世間を驚かすと同時に、真素美が    
火をつけたのではないかと疑われました。真素美は伊勢神宮の
近辺に住んでおり、疑われてもしかたがないところですが、
真相はわかりません。



これ以後もいろいろあって、大正2年に82歳で亡くなります。
業績としては、言霊学や天津金木など霊学を大成し、
大本の教祖である出口王仁三郎に多大な影響を与えたとされます。
おそらく、大本の水茎文字(琵琶湖の湖面に現われる神代の文字)と
天津金木の関連などだろうと思います。

さて、ここまで読まれて、みなさんはどう思われたでしょうか。
これはあくまで1エピソードであり、幕末から明治初頭にかけて、
このような人物が多数輩出してるんです。復古神道とは
このようなもので、これが後の霊学にもつながっていきます。

出口王仁三郎
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自分は、物好きにも『大石凝真素美全集』を古本で買って
るんですよね。全3巻で4万円以上したと思います。
内容は、チンプンカンプンでわけがわからなかったんですが、
これは自分の学が足りないせいなんでしょうか。

さてさて、こんな話、どこまでみなさんの興味を惹いたか
わかりませんが、現代のオカルトを理解するためには、
明治後半から大正にかけて流行した霊学を理解しなくては
ならず、霊学は復古神道につながっているんです。

では、今回はこのへんで。