その日はいつもどおり・・・いや、違うかな。いつもより

電車一本早めのに乗ったんです。でも、それはたぶん関係ないというか、

耳がおかしくなったのは、電車を降りてからです。
電車のドアを出てホームに立った瞬間、両耳に圧迫感を感じたんですよ。
うーん、飛行機のとはちょっと違うなあ。あれは気圧の関係でしょ。
そうじゃなく、もっと鋭い感じというか・・・
圧迫感という言葉が悪かったかもしれませんね。
侵入感と言えばいいのかなあ。両耳同時にね、ミミズくらいの、
ちょうど耳の穴にすっぽりはまるくらいのが入ってきた感じを受けたんです。

もちろんさわってみましたよ。でもね、何もなし。物理的な感じは

一瞬だけでしたが、その後はっきり耳が聞こえにくくなりました。


ちょうど退勤のラッシュ時なのに、うるさい感じがしなかったんです。
変だなと思いました。耳の病気だろうかってね。
子どもの頃、よく中耳炎とかになってたんですよ。
でも、それはプールに入ったせいだったし、
一時的なもんであればいいなあ、とりあえず一晩寝ても同じなら、

明日早引けして医者へ行こうと考えました。それで、

駅の階段を降りてるとき、妻から頼まれた買い物があるのを思い出しました。

いえね、つまらないんもんで、妻がやってる洋裁の材料です。

だいぶ前に言われてたんですが、ずっと忘れ続けてたんですよ。
まあ近々に必要なものとも思えないし、妻もうるさく言わなかったんで。
でも、いつもより早い時間だし、ちょっと地下街に寄って帰ろうかと・・・

そしたらその時、耳の中でチイチイという音がしたんです。
それも両耳同時に。うーん、ネズミの鳴き声に似てると言えば似てました。
あと、聞こえたときに、鼻の奥のほうがツンと酸っぱい感じがしたんです。
ああ、これはやっぱり何か耳の障害なんだろうか、と考えたとき、
頭の中に声が響きました。
「ほら、チャンスじゃないか。洋裁の道具買って行けよ。
奥さん待ってるだろうに」・・・これが確か右の耳のほうでした。
ええ、左からも聞こえたんです。

そっちは「耳、病気かもしれないんだぞ。どうせ洋裁なんて日曜まで

やらないから、耳が治ってから買に行けよ」これが同時にです。

それなのにどっちもちゃんと意味がわかったんですよ。

えーとほら、よくマンガで黒い悪魔と白い天使が出てきて、
ささやきかけてくるシーンがあるじゃないですか。
人間の良心を擬人化したものですよ。ちょうどあんな感じではありましたね。
でもね、洋裁の道具を買うか買わないかなんて、そんな大事じゃないでしょ。
もしかして耳だけじゃなく、脳のほうもヤバイのかと思ったりもしました。
これはいよいよ病気、それも脳梗塞か何かの前兆かもしれん、
買い物なんてやめてまっすぐ帰ろう、そう考えて駅を出、バスに乗りました。
自宅まではバスで20分ほどです。
で、いつもの停留所に近づいたので、降車ボタンを押そうとしたら、
右の耳の奥で、「もっと乗ってけ。メタボ気味だろ。
次の停留所でも定期は同じだから、そっから家まで歩けばいい運動になる」

こう聞こえてきたんです。左のほうは何も聞こえませんでした。
確かにねえ、このお腹ですし、会社の定期健診でも引っかかってますよ。
でも、停留所を乗り過ごして歩くなんてちょっと。
まして耳の奥から声が聞こえてる状態でやるわけがありません。

で、バスを降りました。そっからはマンション街の少し上り坂を

5分ほど歩けば家です。そうですね、体のほうは何でもなかったんです。

どっか苦しいところがあるとか、息切れしたりするわけじゃかったです。
人通りはそこそこありました。で、2分ほども歩いたでしょうか。
一本道なんで、私の住んでるマンションが見えかけたあたりです。

また右の耳から声がしました。「のど渇かないか。

缶コーヒー飲みたくないか。左手の自動販売機100円だぞ」


・・・潜在意識っていうのがあるじゃないですか。
自分の意識の表面には出てなくても、頭の底のほうでずっと考えてること、
そういうのを言うんじゃないでしょうかね。そんとき、もしやこの声は、
自分の潜在意識が働きかけてるんじゃないかと、ふと思ったんです。
ポケットから財布を出したとき、今度は左耳で声がしました。
「やめろ、体調悪いんだろ。変なもの飲んで命取りになるかもしれんぞ」
また右耳、これはやや強い口調でした。
「ブブー 『命』という言葉を出すのは反則だよ。さあ、飲み物を買え」
その勢いに押されて、スポーツドリンクを買い、
コートのポケットに入れたんです。その後は両耳の音はしませんでした。
私のマンションの2つ手前まで歩いたときです。

ドカーンと目の前で爆発音がしました。仰天しましたよ。

目の前15cmのところにストッキングをはいた人の両脚が

あったんですから。下を見ると人の頭、長い髪の女の人でした。

年はわからなかったですね。なにしろ顔がつぶれてましたから。
気味の悪いものが飛び散ってて、みるみるアスファルトに赤い液体が広がっていき、

私の目の前に直立していた足は、ありがたいことに向こう側にパタンと

倒れたんです。「人が落ちたぞ!」 「飛び降りだ!」という声がして、

わらわらと通行人が集まってきました。
そのうちの一人が「あんたの目の前に落ちたよな。運がよかったといか、
まきぞえで死んだ人の話もあるから」私にそう言ったんです。
「おい、救急車に連絡しろ」  「もうダメだろ。頭を見ろよ」

飛び降り自殺・・・この言葉がやっと頭に浮かんだとき、
駅と同じように耳の違和感を感じました。右耳のほうで、

「こっちの勝ちだな。自動販売機で立ち止まらせたのが効いた」
左耳で、「ああ、今回は負けたが、まだこっちが勝ち越してるぞ。
しかし悔しいな、女のほうはうまくいったのに。攻守交替でもう一勝負やろう」
そういう声がして、ぬるりという感じで両耳から何かが抜け出ました。
それはしゃがみ込んだ私の頭上で二つの黄色っぽいホタルほどの光となって、
ちょうちょみたいにもつれ合い、からみ合いながら、道の上の空に

昇っていったんですよ。もう違和感は残っていませんでした。・・・落ちたのは

そこのマンションの住人で、私のまったく知らない人です。即死だった

ようです。いや、それにしても私の耳に入ってきたのは何だったんでしょう。