「親魏倭王」の印影(ただしニセモノ)


今回はまた邪馬台国関連の話ですが、位置論争についてではありません。
ただ、少し専門的な内容なので、興味のない方はスルーがいいかもしれません。
さて、「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼は魏の明帝

(第2代皇帝 曹叡 そうえい)から、西暦238年(239年説もある)

金印紫綬を与えられたことになっています。
「制詔 親魏倭王卑弥呼・・・今以汝為親魏倭王 假金印紫綬・・・」

この部分は、皇帝が卑弥呼に与えた制書の全文を引用しているものですが、
ここから、卑弥呼がもらった金印の印面には「親魏倭王」
という文字が彫られていたと推定されています。
「親魏倭王」は魏側からみた卑弥呼の称号です。

文としてみれば「魏と友好関係にある倭国の王」くらいの意味で、
これは、かなりの厚遇を表しています。
近い時代の印で「漢帰義胡長」(銅印)などというのがありますが、
この意味は「漢の国に帰属した胡人の長」で、
「帰義」は「親」よりはだいぶあつかいが低いと考えてもいいと思います。

印の材質は純度の高い金で、紫のひも(綬)がついていました。これにも

段階があり、『漢書』などによると、材質では上から順に「玉・金・銀・銅」
綬の色は「多色・綟(れい 萌黄)・紫・青・黒・黄」。
ですから、金でできた紫の綬の印というのは、かなり位の高いものなんですね。

また、印の大きさにも段階がありましたし、鈕(ちゅう 印のつまみ)の形も、
皇帝は龍、皇后は虎、諸侯は亀・駱駝。中国以外の国に与えられる場合、
北方は羊・馬、西域は駱駝、南方は蛇、東方は亀、
というような細かい決まりがありました。九州で発見された「漢委奴国王」印は、
蛇(螭 みずち)鈕になってますので、当時の中国には、
倭国は南方であるという認識があったのかもしれません。

「漢委奴国王」印


ちなみに、‌印の名称は「璽、章、印」の順。「玉璽(ぎょくじ)」は、
本来は中国皇帝の用いる玉製(主にヒスイ)の璽を指しますが、
とはいえ、後代には日本の天皇の印にも璽という語が独自に使用されました。
漢代には、北方の匈奴に対して「匈奴単于璽(きょうどぜんうのじ)」
が与えられています。これなどは、ほぼ中国皇帝と同格のもので、
いかに当時の匈奴が中国を悩ませていたかがわかります。

さて、ではこの金印、いったい何に使われるためのものだったんでしょうか?
一つには、身分証明証としての役割があります。
この印を持つものが倭国の王であることを証明する機能があったんですね。
ですから、あたり前の話ではありますが、
厳重に保管しておかなくてはならないものでした。

『三国志演義』では、董卓に荒らされた洛陽の復旧にあたっていた孫堅は、
城南の井戸の中から伝国の玉璽を発見します。伝国の玉璽は「皇帝の証」です。
この後、この玉璽をめぐって争いが起き、最終的に孫堅の子の孫権が、
呉の国を起こして皇帝に即位することになります。
まあ、これはフィクションなんでしょうが、
印の持つ身分証明証的な役割をよく表している部分だと思います。

さて、金印の実質的な役割は、「封泥(ふうでい)」に押すことにあります。
現在われわれが使っている判子は、字の部分がとび出るように彫られていますが、
卑弥呼の金印は、逆に字の部分が引っ込んでいるものでした。
(「漢委奴国王」印もそうなっています。)

封泥とは粘土のことで、当時は重要な文書(木簡・竹簡)は、
まとめてひもをかけて巻物状(簡冊)にし、その上に粘土を盛って印を押し、
途中で開けられていないことの保証として用いられてました。
やや専門的になりますが、封泥にはただ粘土を盛りつけるものと、
「検」と呼ばれる木片をくくりつけ、そこに粘土を貼りつけたものの2種があり、
後者は証明書としての役割が重視されていたと思われます。

封泥の用い方


さてさて、また長くなってしまいました。では、この卑弥呼の金印、
はたして日本のどこかにあるのでしょうか。
これは、もしかしたら期待が薄いかもしれません。というのは、本来、この手の

印というのは、中国の王朝が代わると返上しなくてはならないものだからです。


上で「匈奴単于璽」の話を出しましたが、中国が前漢から新に代わるとき、
新を立てた王莽が、前の印を返上させ、「璽」を一段低い「章」

に変えようとして、匈奴と大きなトラブルになっているんです。

ですから、自分は「漢委奴国王」印が日本のどこかに残っている可能性は
かなり低いんじゃないかと思います。もちろん、卑弥呼とその後の倭王が

返さなかったということも考えられなくはありませんが、『晋書』には、
「泰始初遣使重譯入貢」とあり、266年、倭国から晋への朝貢使節が行ってます。

これはおそらく、卑弥呼の後の倭国王、台与による中国王朝交代に対する

朝貢でしょう。とすれば、このときに「親魏倭王」印は返上され、
新たに「親晋倭王」印?をもらった可能性が高いんじゃないかと思うんですね。
ただ、「親晋倭王」印が発見されたとしても、それはそれでスゴイことですし、
邪馬台国の位置論争に与える影響も大きいでしょう。

あとは、上記の封泥ですね。考古学者の中には、魏からきた中国皇帝の封泥
(または「親魏倭王」印の封泥)が見つかれば、そこが邪馬台国である、
という人もいます。封泥は基本的に、卑弥呼がいた場所で開けられたと
考えられますから、残骸が残ってるかもしれません。
でも、どうでしょう。封泥はあくまで粘土ですので、
そのままではどんどん乾燥して風化してしまうでしょうし、
水に浸かると溶けてしまいます。ですので、自分は難しいだろうなあと思いますね。

清の乾隆帝の玉璽(オークションで約25億7千万円で落札 凍石製 鈕は9匹の龍)