今回は「手水舎」について書きます。この記事は長くなるかもしれません。
なぜなら、2つの考え方が混じり合っているからです。
手水舎というのは、神社の参道の傍らにある、参拝者が身を浄めるための手水
(ちょうず)を使う施設で、水盤舎(すいばんしゃ)や
御水屋(おみずや)とも呼ばれます。

神社の手水舎


冒頭に書いたように、ここには2つの思想が読み取れます。
その一つは「水の祭祀」で、もう一つが「禊(みそぎ)」です。どっちから

いきましょう。水の祭祀を最初に書いたほうがわかりやすいでしょうか。
日本には古来から、水、特に湧水や流れる水を尊ぶ思想がありました。

水の祭祀を行う古代の人々


みなさん、銅鐸はご存知だと思います。
弥生時代中期から後期にかけて盛んに製造された釣鐘型の青銅器で、
中には舌(ぜつ)と呼ばれる金属製の錘りが入っていて、
振り鳴らして音を聞くことができました。ただ、銅鐸はだんだんに大型化して、
音を聞くためのものから、目で見るためのものへと変化していきます。

この銅鐸の多くは土に埋納された形で発見されますが、
集落から離れた場所で見つかる場合が多いのです。
銅鐸は、水への信仰のため水源地近くに埋められ、年に何度か掘り出されて
祭祀に使用されたとする説があります。
下図は「流水紋銅鐸」と呼ばれるものですが、
線刻で流れる水が精緻に表現されています。

流水文銅鐸


また、邪馬台国の候補地とも言われる奈良県の纏向遺跡では、
土坑と呼ばれる、水が湧き出る地点まで縦穴を掘った遺構が多数、
中に土器や木製品などが埋められた状態で見つかっており、
これらの出土品は、後代の新嘗祭で使われたものと共通点があります。

古墳時代に入ると環濠集落が消滅し、集落には豪族居館と呼ばれる、
その地域の首長や豪族がすむ館が建てられるようになります。
下図右は「囲型埴輪」と呼ばれるもので、高い囲いが立てられ、
外から中がのぞかれないようになっています。では、中で何を

やっていたかというと、水の祭祀であったと考えられています。

下図左は、囲いの中にある導水施設です。湧水から樋で水を引き、
一ヶ所に溜めて上澄みのきれいな水をつくり、
それを何らかの儀式に使用していたと考えられています。これは

もちろん個人的なものではなく、集落全体の繁栄を願うための儀式で
あったわけです。この水の祭祀は後代ますます盛んになり、
7世紀の斉明天皇の時代にピークを迎えました。

古墳時代の囲形埴輪と導水施設
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下図は、奈良県明日香村にある「酒船石」と呼ばれる遺物で、
酒や薬をつくるのに使われたなどという説もありますが、
自分は水の祭祀に使用されたものではないかと考えています。
このように、日本には古代から水を尊び、祀る習慣があったんですね。

飛鳥時代の酒船石


さて、話を「禊」のほうにうつします。禊とは、身体に罪や穢れのあるとき,
または神事の前に,川や海の水につかって,身体を洗い清めることです。
神道では穢れ(気枯れ)が強く忌まれます。
もし穢れを受けてしまった場合には清めなくてはなりません。

禊の始まりは、伊弉諾(いざなぎ)が、死んだ妻を追って黄泉の国へ行き、
帰ってきた後、その体についた穢れを落とすため、
「筑紫日向の橘の小戸 (おど) の檍原 (あはぎはら) 」の流れで禊を行いましたが、
このときにたくさんの神が生まれ、最後に、左眼から天照大神、
鼻から須佐之男命、右目から月読命が生まれたということになっています。

寒中禊


禊はもちろん現代でも行われます。「垢離(こり)」という言葉がありますが、
これは水垢離(みずごり)、水行(すいぎょう)とも言って、
禊の一種です。大きな仕事をする前、あるいは神社やお寺での行事がある前に、
家で井戸水をくんで水をかぶったり、あるいは山にこもって滝に打たれ、
その成就を願うわけです。水垢離は、それが苦しいほど効果があるともされ、
寒中に雪の舞う中で行われることもあります。

さてさて、このように神社の手水舎は、「水そのものへの信仰」と
「禊」という2つの考え方が混じり合った場なのです。
神道では、体が清められるのと心が清められるのは同じとみなします。
ですから、しっかりと作法にしたがって、手水舎で身を清め、
心をすがすがしくして神様にお会いしたいものですね。