去年の7月のことです。私の住んでいる地域では、第三週の土日に
庚申さんのお祭りがあり、たくさんの夜店が商店街に並びますし、
山車も出ます。銀行の駐車場では「よさこい」を踊る人たちもいるんです。

私の家は昔、酒屋をやっていましたが、私が物心つく前にやめてしまい、

そのときに、神社のお祭りの世話役からも外れたということでした。

それがこの2日間だけは、もと店だった場所のシャッターを開け、
家の前の通りを歩く人めあてにジュースやかき氷を売るんです。
お祭りは中学生の私にはとても楽しみな行事でした。その日の5時過ぎに、
2人の友だちが浴衣を着て家まで迎えにきてくれました。夕飯は、
これからチョコバナナやヤキソバを飼い食いするので、食べていませんでした。
貯めていたお小遣いを入れた財布を持ち、出かけようとしました。


店とは別になっている玄関を出ようとしたとき、せまい階段がギシギシと鳴り、
トレーナーの上下を着た太った人が降りてきました。
・・・私の姉です。姉は4歳年上で、本来なら高校生の年代なのですが、
3年前から自室に引きこもっているため、受験すらしませんでした。
伸び放題の髪の姉は手に大判の本を持って顔をかくしていましたが、
太っているため、本からあごや頬の肉がはみ出していました。
・・・引きこもりになる前の姉は、私よりずっときれいだったんですが・・・
こんなことを考えてはいけないんでしょうが、
友だちに対してとても恥ずかしい気持ちになりました。
と同時に、何で下りてきたんだろうとも思いました。私の友だちが
家にきたときなど、これまでぜったいに部屋を出ることはなかったんです。

「あんた、今年のお祭りに行くの?」姉はしわがれた声で聞いてきました。
「うん。でも学校の規則があるから9時までに帰ってくるよ」 
「・・・そう。あんた13歳になったんでしょ。下社に行ったら面に気をつけて。
もしかしたら踏ませようとしてくるかもだけど、踏んじゃだめ」
姉はこれだけ言うと、大儀そうに太った体を引きずって部屋に戻っていきました。
友だち2人は顔を見合わせていましたが、私に遠慮してか何も言いませんでした。
私は姉の言葉を考えてみたものの、さっぱり意味がわかりませんでした。
両親に声をかけて外に出ると、楽しみが先に立って、
そのときのことはすぐに頭から消えてしまいました。
しきたりでは、庚申さんにお参りするにはまず上社に行くことに
なっていました。それを終えてから下社に行くんです。


どちらか一方だけに参るのはよくないこととされていました。
家から上社まで歩いて15分くらいなんですが、道にはピカピカ光るおもちゃや
風船を持った子どもずれの家族がぞろぞろ歩いていました。
友だちと話をしながら本通りに出ると、前に進むのもたいへんなくらいの
人出でした。道の両脇ずっとに夜店が並んでいました。
庚申さんは正式には猿田彦神社といって、
鼻の長い天狗のような神様をお祀りしているんですが、
猿のお面が有名で、お祭りでないときにも境内で売られています。
だから夜店でも、たぶん他のとこのお祭りよりお面を売る店が多いんです。
その夜店を見て、さっき姉が言ったことをちらっと思い出しました。
上社に着いてお参りをしました。混んでいるかと思いましたが、


思ったほどではありませんでした。上社は下社に比べて
境内が広く社殿も立派でしたし、地元の人は昼のうちに早くここにお参りし、
夜は下社にいくだけということが多いせいもあったと思います。
学校の同級生や、部活の先輩たちとも道々顔を合わせ、
手をふったり挨拶したりしました。見回りをしている先生とPTAの
人のグループも見かけました。楽しみにしていたチョコバナナを買い、
食べながら歩きました。ヨーヨー釣りなんかもしました。
下社までは普通に歩けば10分もかからないんですが、
道草を食いながら歩いてたのと、押すな押すなの人出で1時間近く
かかってしまいました。やっと下社の小ぶりの鳥居が見えてきました。
人が参道の幅に長い列を作っているのが見えました。警察官や、


半纏を着た地元のボランティアの人たちがたくさん出て、列の整理をしてました。
友だちと3人で並びましたが、なかなか前に進みません。
待っている間、「下社で面を踏まないように」と言った姉の言葉が
頭によみがえってきました。下は玉砂利の参道で、
お面が落ちているということもありません。たくさんの人の足元が
見えるだけでしたが、それでもなるべく下を見ながら歩きました。
10分ほどかかってなんとか社殿の前まできました。離れたところから、
人の頭ごしにお賽銭を投げ、鈴を鳴らすために木の段を登り始めました。
混んでいるので、前の列の人が一段上にいったら自分も上るという感じでしたが、
足をおろそうとしたときに、ふうっと階段の上に顔が浮き出てきました。
お面ではなく人の顔でした。まだ引きこもりになる前の姉の顔だったと思います。


とっさに下ろしかけた足をそらし、すぐ顔の横を踏みました。
顔は・・・少し悔しそうな表情をしたように見えましたが、
そのままにじむように消えていきました。・・・出がけに姉に
ああ言われてなかったら、注意することもなく踏んでしまっていたでしょう。
胸がドキドキしましたが、友だちには言いませんでした。
お参りしたあとはいろいろな遊びをし、お祭はまだまだ盛り上がっていましたが、
8時50分頃には友だちと別れて家に帰りました。
このあたりの時間から、先生方の見回りがとても厳しくなるんです。
戻ってくると、家の前で両親がまだ臨時の店をやっていましたが、氷水に

入れたジュース缶は、かなり減っていました。「だいぶ売れたんだな、よかった」
と思いながら家に入ると、階段の降り口に姉が座って待っていました。
やっぱり本で自分の顔を隠しています。たくさんの発疹が出ていて、


いくら病院にいっても治らないんです。姉は、「お面出てきたか?
それ踏まなかったか?」と聞いてきたので、「出てきた、でも踏まなかったよ」
とだけ答え、姉の昔の顔をしていたことは言いませんでした。

「そうか、よかったな。あれを踏むと私みたいな顔になるから」こう言って、

姉は はうようにして階段を上っていったんです。・・・これで終わりです。