きう

今回はこういうお題でいきます。なぜ10月を

神無月というのかについて考えてみました。神無月といえば、
「出雲大社に八百万の神々がすべて集まって会議をする。出雲以外の
他の地方では神様がいなくなるので神無月、出雲だけは神有月と呼ぶ」

こういう話が有名ですよね。まあ自分としても、特に異を唱えるつもりも
ないんですが、この手のことを聞くと、歴史を専攻した者としては、
「へえ、いつからそうなったんだろう」という疑問を持ってしまいます。もちろん
こんなことはわからないでしょうが、それでも少し考察してみたいと思います。

まず神無月の語源を調べると、いろいろな説があります。
1,神を祀る月なので「神の月」が「神な月」と転訛しさらに

「神無月」になった。これが現在のところ最も有力みたいですね。
水無月・・・6月が梅雨の時期なのに水が無いというのは変なんですが、
これも元々は「水の月」だったという話。この他にも、

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2,「雷無月」雷の月から 3,新穀で酒を醸す月なので、
醸成月(かみなしつき)から古代は、各種穀物を口に入れ噛み砕いて保存し、
発酵させるというところからきています・・・というように、Wikiだと

11項目まで語源の説が紹介されていますね。うーむ、難しい。その中には
出雲大社説もあるのですが、じつは神様が一ヶ所に集まる月という説も
捨てがたい部分があるんです。

「魏志倭人伝」はご存知でしょう。
邪馬台国の女王、卑弥呼についての記述がある3世紀の中国文献で、
めんどうがらずに書けば『三国志 魏書 東夷伝 倭人の条』となります。
倭人伝というのは、東夷伝という中国から見て東の国々について
書かれた部分の中にあるんです。

この東夷伝中の「高句麗伝」に、
十月に天を祭り、国中が大いに集まる。これを東盟という。
おおやけの集会の衣服はみな錦や刺繍、金、銀を使い自分で飾る。
大加や主簿は頭に布製の頭巾を被るが、余分なところのないピッタリした
頭巾である。小加は折風(頭巾の名)を被るが形は中国の弁冠のようである。


出雲大社


その国の東に大きな洞窟があり、隧穴と呼んでいる。
十月の国中から集まる大集会のとき、隧神を迎えに国の東に還り、
これをていねいに祭り、木の隧神を神坐に置く。

という、じつに興味深い記述があります。

高句麗は、今の中国東北部南部から朝鮮北中部にあった
ツングース系民族の国家ですが、「東盟祭」という行事が10月に
あったようです。国中から人が出てある洞窟に集まり、
そこで洞穴の神を祭る大集会を行うということです。

もしかしたら、こういう10月に国中が一ヶ所に集まるという祭りの習慣が、
海を越えて日本まで伝わってきたのかも、と考えられなくもないんですね。
しかし、10月は基本的には北半球では収穫の月となります。
一昨日とりあげたハロウイーンにしても、収穫祭の側面を持っていた

わけですので、特に伝播を考えなくても、世界の各地で行われていて
不思議もないわけです。うーん、行き止まってしまいましたね。
さて、話を変えて吉田兼好の『徒然草』はご存知でしょう。
この中に、国語の教科書に取り上げられて有名な「神無月のころ」の
段以外に、神無月の由来、いわれについて触れた段があるんです。

吉田兼好


十月を神無月と言ひて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。
本文も見えず。但し、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。
この月、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、
その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、
その例もなし。十月、諸社の行幸、その例も多し。
但し、多くは不吉の例なり。202段


伊勢神宮
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(10月を神無月といって、神事を行っていけないことを記した書物はない。
しかし、この月には実際に諸神社の祭りはないので、
この名がついたのだろうか?この月にはたくさんの神々が伊勢神宮
集まってこられるという話もあるが、根拠は見つからない。そういうことなら、

10月の伊勢神宮では特に祭りが行われていいようなものだが、その例もない。
10月には諸社への行幸は多いが、不吉なものばかりだ。)
・・・これは変ですね。吉田兼好は、
なぜ10月を神無月というかについて考察していますが、
博識の兼好にしても根拠となるべき古典は見つからないようです。

それどころか、兼好は「10月に伊勢神宮に全国の神々が集まる説」
を紹介したうえで、それに否定的な考えを述べています。出雲大社に
ついての言及はありません。兼好はそのことを知らなかったんでしょうか。
それとも出雲説を知っていたから、伊勢神宮説を否定したんでしょうか。
このあたりもなんともいえませんね。

 

御師



神無月について、確認できる最も古い文献は、
平安時代末に藤原清輔が書いた歌学書「奥義抄」という本に
十月、天下のもろもろの神、出雲国にゆきて、
こと国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり


という記述が出てきます。ですから、遅くとも平安後期には「出雲大社に神々が
集まる」という伝承は生まれていたようです。吉田兼好は鎌倉時代の人ですし、
歌の道にも素養が深かったので、京都から離れた鎌倉にいても、
知っていたと考えたほうがよいような気がします。
ではなぜ、伊勢神宮に神様が集まる話が出てきたのでしょうか?

ここからは自分の推測ですので、話半分として聞いてください。
伊勢神宮をはじめとする各神社の「御師」はご存じの方も多いでしょう。Wikiには、
特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、
参拝・宿泊などの世話をする者のこと。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。

 

伊勢神宮



平安時代の御師には、石清水・賀茂・日吉などのものがあるが、
代表的なのは熊野三山の熊野御師である。
熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、
その際の祈祷や宿泊の世話をしたのが熊野御師であった。
このように書かれています。

平安時代にはすでに、各神社の参拝客の誘致合戦が盛んに
行われていたようです。各神社の御師が各地に散らばって、御札や暦を配り、
参拝の客を呼び集めます。熊野の御札も伊勢の暦も有名ですよね。
この神無月の話もそんな中で出てきたのではないでしょうか。

もしかしたら鎌倉では、伊勢神宮の御師が10月に神々が
伊勢神宮に集まる、というような宣伝を行っていたのかもしれません。
その手のことに対し、兼好は「伊勢神宮も(出雲大社も)
神々が集まるなどのことに、特別な根拠はないだろう」
こんな感じで皮肉っているのかもしれませんね。

実際、『日本書紀・古事記』の神話にはそのようなことは書かれてませんので。
平安時代後半頃までに、宣伝合戦の末に神々の会議の誘致は
出雲大社が優勢だったのが、伊勢神宮も巻き返しを図っていた。
・・・深読みのしすぎでしょうか。しかし本来神道家の家系で、ややシニカルな
吉田兼好の性格を考えれば、そんな感じで話を伝えていても
不思議はないような気がします。

さてさて、出雲大社に10月に神々が集まるのは縁結びのためと言われています。
「うちの担当地区の男〇〇と結びつける縁を与える女はいないか」
などと相談なさるのでしょうか。
今月も残りあとわずかです。良縁を希望されている方は、
今からでも願掛けなどされてみてはいかがでしょうか。

縁結び会議