この題名を読まれた中には「ははあ、あの話だな」
と察知された方もおられるでしょう。
井沢元彦氏の『逆説の日本史』の中に出てきて有名になりましたが、
元々識者の中では知られていた内容です。ウエブ辞書を引きますと、
「崇」の字義は1、気高くたっとい 2、たっとぶ、あがめる

「祟」については、1、神のたたりをうける ということで、
似ていますが異なる字です。さて、昔の天皇には諡号(しごう)
というものがありました。これは天皇の死後に奉る、
生前の事績への評価に基づく名のことで、

淡海三船
キャプチャ

元々は中国の風習でした。諡号には国風諡号と漢風諡号とがありますが、
必ずしもすべての天皇にあるわけではありません。
平安時代の前期ころに、どちらも慣習が絶えています。
また、現在言われる「昭和天皇」というのは、諡号というより
追号(帝号)と言うべきものです。

今回お話するのは、この諡号の中でも漢風諡号に関することです。
『日本書紀』の本文には、漢風諡号の神武天皇、
仁徳天皇などの語が出てくることはありません。
これらは、淡海三船(皇族、漢詩人)によって、

760年代に、一括して撰進されたという説がありますが、
必ずしも確証があるわけではありません。
前述した井沢元彦氏は、この淡海三船撰説を疑っておられますが、
かといって、それに有力な反証があるということでもないようです。



この漢風諡号の中で、生前に不幸な境涯に落ちた天皇に対して、
「崇」の字が意図的に与えられているという話があり、
これは自分は間違いないような気がします。「祟る・祟られる」
という意味がかけられているのだと思いますね。ざっと見ていきますと、

崇神天皇・・・第10代天皇であり、事績が詳しく記載されているため、
それまでの天皇(欠史8代)とは違って、実在性が高いと見るむきもあります。
全体的には強権をもってよく国を治めたといった書き方をされていますが、
神のたたりを受けて疫病が蔓延した、といった話も出てきます。
この崇神天皇をして、怨霊信仰がわが国に現れた初めであると説く論もあります。

崇峻天皇・・・第32代天皇(553年?~592年)蘇我・物部戦争の
ころの天皇で、聖徳太子とも同時代なんですが、なんと、
蘇我馬子の謀略によって暗殺されてしまいます。これは、
わかっている中では、天皇が臣下によって弑せられた唯一の例です。
もともとは蘇我氏により擁立されたのですが、その支配を嫌って、

献上された猪に「自分が憎いものの首をこのように斬りたいものだ」
そう言って、目に刀を突き立てた。これを聞いて危機感を覚えた馬子が、
暗殺者を差し向けたんです。『日本書紀』の暗殺の記述があまりにも
淡々としていること、蘇我馬子の罪が追求された様子がないことから、
さまざまな説が出されています。

崇道天皇・・・(750年?~785年)皇位継承をしていないので、
天皇の代数には含まれていません。奈良時代の人物ですが、
早良皇子、早良皇太子と呼ばれることが多いです。母親の身分が低く、
出家していたところ、諸事情により還俗して太子になりました。
しかし、藤原種継暗殺事件に連座して廃太子され、

淡路国に配流される途中、絶食して憤死したと言われます。
この早良皇太子と、天皇呪詛の嫌疑で暗殺?された井上内親王の怨霊によって、
皇族・貴族の相次ぐ死、疫病の流行、洪水などが起こったと考えられ、
鎮魂の追供養を何度か行った後に、崇道天皇と追称されました。
この早良、井上両怨霊のために平安遷都が起こったとする説までありますね。



崇徳天皇・・・(1119年~1164年)第74第天皇。
崇徳上皇、讃岐帝などとも言われます。院政期でしたので、幼くして天皇になり、
若くして上皇になりますが、保元の乱に関連して、讃岐の国に配流されます。
天皇または上皇の流罪というのは、史上およそ400年ぶりのことです。

この配流先で、上皇は仏教一途の生活を送っていたようで、
極楽往生を願い、五部大乗経(これは墨で書いたという説と、
血で書いたという説があります)を写し、
完成した写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したのですが、
後白河法皇が呪詛ではないかと疑い、突き返されてしまいました。

激怒した崇徳上皇は、その場で舌を噛み切って、
戻ってきた写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け、
ついには生きながら天狗になったと言われます。
最期は暗殺されたとする説もあります。



まあ、このあたりのことは『保元物語』という軍記物に書かれている内容で、
『平家物語』の那須与一の扇の的なエピソードなのかもしれません。
(学問的には与一の実在すら立証できていません)
真偽に関しては諸説ありますが、後代に、崇徳上皇が、
わが国に祟りをなす大怨霊として見られたことは確かです。

『太平記』には、怨霊の首魁である金色の鳶として登場しますし、
上田秋成の『雨月物語』の「白峰」の段も有名です。
さてさて、この他にも「徳」の字が諡号についた天皇も
不幸な境涯を象徴されているとする説もあり、
この崇徳天皇、顕徳天皇、順徳天皇、平家滅亡の際に入水した

安徳天皇あたりはたしかにそうかもしれませんが、古代の懿徳天皇、
民のかまどの煙が立たないのを憂えた仁徳天皇などの例もあり、
すべてがそうなっているとも考えにくい気がします。井沢元彦氏は、
この「徳」字鎮魂説も一つの論拠として、聖徳太子怨霊説を展開して
いるんですが、自分は、そこまで言えるかのなあと疑問に思いますね。

『怨霊と化した崇徳上皇』(歌川芳艶)