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今回はこういうお題でいきます。これもけっこう地味な話になりそうです。
さて、2017年に公布された「皇室典範特例法」にのっとり、
天皇陛下は2019年4月30日に退位して上皇となり、5月1日に、
皇太子徳仁親王殿下が即位して、新元号への改元が行われました。

なんで特例法が必要だったかというと、皇室典範には、
「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とあるためです。
つまり天皇は、崩御するまで天皇でなくてはならず、生前の退位は認められて
いなかったんですね。これは、1889年(明治22年)に、
大日本帝国憲法と同時に発布された旧皇室典範から続く規定です。

では、どうしてこういう規定ができたのか。これにはいろんな要因があります。
まず、明治期には、富国強兵政策を推し進め、欧米列強国と伍していくため、
権力の一点集中が必要とされました。明治政府は、
絶対的な天皇の権威を背景として、さまざまな改革を行っていきます。

もう少しわかりやすく説明すると、もし、天皇の生前の譲位が認められれば、
先の天皇は上皇となって、権威が分散してしまうことが危惧されたんですね。
中央政府とは別の勢力が、上皇を担いで反乱を起こす可能性があります。
そのてのことは、長い天皇家の歴史の中で、なかったわけではありません。

また、もし生前退位が認められていると、やはり外部勢力が、
現天皇が気に入らないからといって強制的に退位させたり、また天皇自身が、
自分から退位してしまう可能性もあります。江戸時代の後水尾天皇は、
「紫衣事件」など、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行為に耐えかね、
幕府に対する腹いせで譲位しているんです。

後水尾天皇


そのような事態を防ぐため、明治以来、天皇は、崩御されるまで
ずっと天皇位にいなくてはなりませんでした。今回の生前退位も、
皇室典範そのものの改正も検討されましたが、上記のようなことのため、
特例法で対応することになったんですね。

ちなみに、昭和天皇までの124代の天皇のうち、生前退位は、
半分に近い58回あったとされます。その最初は、645年に35代皇極天皇が、
弟の孝徳天皇に対して行ったものです。また、最後に譲位が行われたのは、
江戸時代後期の1817年で、今回はほぼ200年ぶりということになります。
今上陛下の退位後の称号は「上皇」、退位した天皇の后は「上皇后」です。

孝徳天皇(軽皇子)


さて、みなさんは「院政」という言葉を学校の歴史の授業で勉強されたと
思いますが、院政とは、「天皇が皇位を後継者に譲って上皇となり、
政務を天皇に代わり直接行う形態の政治」のことで、
1086年に、白河天皇が譲位して白河上皇となって始まりました。
上皇のことは「院」とも呼ぶので、院政という言葉ができたんです。

また、「法皇」という言葉もありますが、これは上皇が出家した場合に
用いられます。では、「治天の君」という言葉はご存知でしょうか。院政期には、
頻繁に譲位が行われ、同時に上皇3人に天皇1人がいたときもあります。
それだと世の中が混乱しますよね。そこで、天皇家のトップとして、
実質的に政務を行った人物を、治天の君と呼ぶようになりました。

勅、または院宣を出せる人物ということですね。

治天の君は、上皇の1人だったことも、現役の天皇だったこともあり、
上皇が治天の君の場合は院政、天皇だった場合は親政と呼びます。
・・・ここまで長々と説明してきましたが、いったい何人の方が
読んでくださってるでしょうか。やっと怨霊の話に入ることができます。

怨霊と化した崇徳上皇
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保元元年(1156年)、鳥羽天皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の
兄弟が治天の君の座をめぐって争い、後白河天皇が勝利しました。
これが「保元の乱」ですね。戦いに敗れた崇徳上皇は、剃髪して投降しますが、
讃岐国へ流罪となります。上皇が配流されるのは400年ぶりのことでした。

ここからは『保元物語』からの話です。讃岐国での軟禁生活の中、
仏教に深く傾倒した崇徳院は、五部大乗経を写経して、自らの反省と
戦死者の供養のため、写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出しましたが、
弟の後白河院は「呪詛が込められているのではないか」
と疑って受け取りを拒否、写本を送り返してよこしました。

後白河上皇(法皇)


崇徳院は激怒し、舌を噛み切った血で写本に、「われ日本国の大魔縁となり、
皇を取って民とし民を皇となさん」 「この経を魔道に回向す」と書き込み、
朝廷を呪って爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になったとされています。
また、崇徳院の亡骸を収めた棺からは、
蓋を閉めていても血があふれ出てきたともあります。

一説には、崇徳院の死は、朝廷が送った刺客による暗殺だという話もあるんです。
この後、大火や源平の戦いが起きて、世の中は乱れに乱れ、
崇徳院の怨霊のしわざという噂が広まり、ついに後白河院は、
怨霊鎮魂のため、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改めることになります。

経文を血で染める崇徳上皇
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それでも怨霊の猛威はやまず、崇徳院が变化(へんげ)した大天狗は、
『太平記』や、上田秋成の『雨月物語』などの作品に登場しています。
明治天皇は1868年、自らの即位にあたり、勅使を讃岐に遣わし、
崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて、白峯神宮を創建しました。

さてさて、ということで、天皇の譲位、生前退位は、不幸な歴史を背負って、
怨霊まで生み出してしまっているんですね。
まあ、現代の世にそういうことはないとは思いますが、このような背景から、
各方面から危ぶまれていたわけです。では、今回はこのへんで。