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今回はこういうお題でいきますが、歴史というほどたいそうな内容

でもありません。さて、「肝試し」は怪談を書く上での重要な

素材の一つですね。学校の合宿などでやる場合もありますし、
心霊スポットと言われる廃墟などに探索に行くのも、一種の肝試しです。

ここで、肝試しの「肝」って何でしょう。字からすると「肝臓」を指している
ようにも思えますが、古典での使い方を見れば、内蔵全体や心臓、
心などを表してる場合もあり、一様ではありません。
まあこれは、しかたのないことでしょうね。

五臓六腑などと言いますが、1774年に杉田玄白らが、『解体新書』

を翻訳するまで、日本では、人間の内臓がどうなってるかはよくわかっておらず、
医師などでも、経験に基づいた治療しかできなかったんですね。
ですから、「肝」という言葉の意味内容が混乱するのもいたしかたありません。

五臓 陰陽五行説からきたもの
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とはいえ、慣用句には「肝が太い」 「肝が冷える」などがあり、
「肝」は、その人物の勇気や豪胆さをつかさどる体内の臓器と考えられて

きました。「肝試し」が最初に文献に現れるのは『今昔物語』ですかね。
源頼光四天王の一人であった平季武(たいらのすえたけ)が、
真夜中に産女(うぶめ)が出るという川を渡る話が載っています。

たくさんの武士が、ある夜、詰所に集まっていろいろ話をしていると、
ある侍が、川の渡し場に産女という怪しのものが出て、

「これを抱いてくれ」と赤ん坊を渡してよこすという話をし始めます。
皆が「こんな夜中にはとても見に行けない」と言い合っていると、
武勇自慢の季武が、「俺が行ってみせる」と言います。

平季武と産女
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あまりに季武が「できる、できる」と言うので、ついに皆と賭けをすることになり、
その場の武士は鎧兜や弓矢、馬などを賭けの品としてその場に積み上げます。
季武は、「確かに行ってきた証拠として、俺の鏑矢を向こう岸に差してくる。
明日の朝行って、見てくればよかろう」こう言い放って出発します。

季武が渡し場まで来て川に馬を乗り入れると、いつしか近くに不気味な女がいて、
「これを抱いてくれ」と泣いている赤ん坊をさし出すので、
「承知した」と赤ん坊を袖の中に入れて馬の足を速めると、
女が後ろから走ってついてきて、「さあ、もう赤ん坊を返してくれ」と叫ぶ。

「いいや返さん」季武は女を振り切って詰所まで戻り、
「どうだ、産女の赤ん坊を取ってきたぞ」と言います。ですが、袖の中を見ると、
いつのまにかたくさんの木の葉に変わっていた・・・皆が季武の勇気を褒めたたえ、
季武は、「当然のこと」と賭物を取らずに返した。こんな話が載っていますね。

まあ、季武は武士ですし、武士階級というのは貴族に代わって戦いを受け持つために
できたものなので、「武勇」という言葉があるように、勇気を示すのは
きわめて大切なことでした。かといって平時に戦いをするわけにいかず、
肝試しの習慣は、そんな中からできあがっていったのかもしれません。

藤原道長
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また、貴族であっても、肝試しをする場合もありました。『大鏡』には、
花山天皇の時代、みなが夜に集まって、これまでに体験した

怖ろしい話をしていると、天皇が、「こんな夜中に

宮殿内を回ってくることはできるだろうか」と言い、
藤原3兄弟に肝試しを命じます。この言葉を聞いて兄2人は顔色を変えて
震えだしましたが、末の藤原道長だけは「やってみせます」と言う。

結局、3人ともが肝試しに出たが、2人の兄はすぐに逃げ帰ってしまい、
道長一人だけが大極殿まで行き、実際に来た証拠として、柱を小刀で

削り取り持ち帰った。翌朝、それを柱の傷と比べてみると

ぴったり合っていた・・・こんな話が出てきます。
ただ、これが実際にあったことかどうかは何とも言えないですね。

後に名をあげる人物には、若いころから優れていたことを示すための、
こういうエピソードはつきものです。余談ですが、道長は深く仏教に

帰依していて、62歳で亡くなる際には、阿弥陀堂にこもり、阿弥陀仏像と

自分の手を5色の糸でつなぎ、西方浄土への往生を願いながら、

僧侶たちの読経の中で息を引きとったと言われます。

平忠盛と怪しい法師
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あとはそうですね。肝試しとはちょっと違いますが、平清盛の父、忠盛が
北面の武士だった時代。夜中に愛人の祇園女御のもとへ行こうとする白河法皇の
警護につき従っていると、前方にぼうっと光る怪しい化け物がいて、
頭に多数のトゲが生え、しかも手に小槌のようなものを持っている。
(「一寸法師」にみるように、当時、槌は鬼が持つ武器と考えられていました。)

他の武士たちが怖れ騒ぐ中、忠盛だけが冷静に前に進み出て、

その者をとらえてみると、辻の灯籠に油を注ぐ法師だったことが

わかります。法皇は、弓で射殺してしまわなかった忠盛の勇気を褒め、

褒美として祇園女御を与えます。そうして生まれたのが平清盛。つまり、

清盛は法皇の子だったということになります。この話も、どこまで本当か
わかりませんが、成長した清盛が異例の出世を続けていったのは事実です。

最後に、これも肝試しとは少し違うんですが、水戸黄門として知られる徳川光圀が、
若い頃に辻斬りをした話。酔って友人と歩いていた光圀は、「人を殺す勇気が

あるかどうか」で言い合いになり、神社の床下に刀を抜いて潜っていき、
そこで寝ていた浮浪者を刺し殺したという記録が残ってますね。非道な話ですが、
これは実際にあったことのようで、今でいうホームレス狩りに近いものです。

徳川光圀
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さてさて、今回はエピソードのご紹介で終わってしまいました。ということで、

現在、面白半分に行われている肝試しとは違って、昔の武士にとって、
胆力を示すことは、そのまま出世につながるケースが多かったんですね。
逆に言えば、臆病者とされるのは、武士の存在意義にかかわる、
たいへんな恥辱だったわけです。では、今回はこのへんで。