以前に「史上の霊能者」という記事を書きまして、
そこでは安倍晴明、小野篁などを取り上げましたが、
これらの人物はフィクションの主人公として設定されることが多く、
いくつもの小説やマンガ作品をあげることができます。

ところが、非常に霊的な生涯をおくりながら、これまでフィクションには
ほとんど登場していない、日本史上の著名な人物がいます。
平田篤胤ですね。この人は、神秘思想家と言っていいほどの霊的な
研究をしています。それも当時としてはきわめて体験主義的なものです。

小説に登場しないのはなぜなんでしょうかねえ。
彼が生きた幕末という時代は魅力的だと思うのですが、
国学という言葉の響きが、硬さを感じさせるんでしょうか。
歴史ブログではないので、簡単に紹介しますと、1776年生~1843年没。
当時としては長生きなほうでしょう。出羽久保田藩(現在の秋田市)

平田篤胤


に武家の四男として生まれ、20歳で郷土を出奔し、
江戸在住の山鹿流軍学者の養子となります。本居宣長の死後の
門人として、膨大な量の著作をものしました。荷田春満、
賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人の中の一人とされ、
その思想は、幕末の尊皇攘夷の支柱となったと言われます。

さて、篤胤の学問の基本姿勢として、死後の世界や魂のゆくえについて、
確たる考えを持っていないと、根無し草のように心が安定しないと書いており、
まずそこを確固たるものとするために研究の嚆矢とする・・・
これはなかなか考えさせられる部分です。

現在では、自然科学、社会科学と、死生観は切り離されていて、
霊や魂、死後の世界などは個々人のとらえ方の問題とされることが
多いと思いますが、それとは対極にある考え方なんですよね。
その著作『幽冥論』によると、本居宣長などは死後、黄泉の国に行くという、

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伝統的?な神道の考え方でしたが、篤胤は生と死は区切りあるものであるが、
生の世界と死後の世界はつながっている(というか、重なり合っている)
と考察しました。死者の魂はこの世から離れても、
人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことを見ており、
干渉することもできるというような考え方です。

まあ、ここの部分は難しいのでこれくらいにしておきますが、篤胤の
考え方によれば、この世に怪異や不可思議があっても当然なわけです。
神や物の怪、天狗などが、ひょいとこの世に現れて神秘を顕すことが
できるんですね。このような考え方から、篤胤は実際にあったという
怪異の収集を始めました。次の三つの事件が有名です。

『勝五郎再生記聞』・・・いわゆる輪廻、生まれ変わりの話です。
勝五郎は現在の東京・多摩地区に住む少年でしたが、
生まれ変わりの記憶を母に話しました。それによれば、前世の名前は
勝蔵で、一里半ほど離れた別の村で暮らしていましたが、



6歳で亡くなりました。勝五郎は夜ごと、
母親に「前の両親に会いたい」と訴えました。
困った母親がその村に連れて行くと、
かつて住んでいた家をあっさり言いあてただけではなく、
「あの木は前はなかった。この屋根もなかった」と家の変化を正確に

指摘したそうです。それに驚いたその家の人たちは、
勝五郎を勝蔵の生まれ変わりと認めるしかなかったということです。
・・・篤胤は現地に赴いて詳しい調査を行い、
少なくとも勝五郎が実在の人物であるのは間違いないようですね。

『稲生物怪録』・・・これが一番有名かもしれません。

篤胤の著作というより、広く流布して世に広めたということのようです。
備後三次藩(現在の広島県三次市)の藩士、稲生平太郎が、30日間に
わたって体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた話です。



平太郎はすべての妖怪を動じることなく撃退し、最後には魔王、
山本(さんもと)五郎左衛門から勇気を称えられて木槌を授かります。
平太郎の子孫は現在も広島市に在住、『稲生物怪録』の原本も
同家に伝えられ、なんと木槌も、国前寺に実在しています。
これはじつに奇怪な話で、水木しげる氏も漫画化しています。

『仙境異聞』・・・ 江戸市中に寅吉という15歳の少年が現れ、
不思議な術を使うと評判になり、その話によると、もともと占いに
興味のあった少年は、7歳のときから山人(仙人)に連れられて空中を飛行し、
江戸と常陸国の岩間山との間を往復し、修行して幾多の術を身につけた

ということです。これを聞いた篤胤は、保護者のところから、
寅吉を半ば強引に自分の家に連れてきて数年間住まわせ、
神仙界の様子を事細かに問いただして著作としたのです。
また寅吉に書かせた神仙の姿絵を家宝とし、
自らの著作と手紙を寅吉に託して神仙の元へ届けさせました。

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国学というと、本の山に埋もれて神話などの研究をしているという印象ですが、
篤胤の好奇心と行動力はたいしたものです。生涯にものした著作は百数十冊。
Wikiには「何日間も寝ずに不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら、
机にむかったまま寝て、十分に寝ると再び起き、また書きつづける
というものだった。」このようにありますので、エネルギーの人だったんですね。

今回紹介した他にも、神薬、易、遁甲、古暦・・・なんと蘭学に関する
著作もあります。自分に関係あるところでは、九州の古墳内から
筆写された神代文字(筑紫文字)の研究も有名です。
ちなみに篤胤は、最初のうちは神代文字否定論でしたが、
だんだんに肯定論へと変わっていきます。

篤胤はその晩年に、江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版し、
幕府の癇に触れ故郷の秋田に帰参するよう命じられ、
以後の著述を禁止されました。これで生きる意欲が萎えたのか、
その2年後、68歳で病没するのです。では、今回はこのへんで。

『仙境異聞』七生舞