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今回はこういうお題でいきます。カテゴリは日本史ですね。
みなさんは、「首狩り族」という言葉を聞くとどう思われますでしょうか。
ああ、未開の地の野蛮な風習だと感じられるかもしれません。
ですが、日本には古来から敵の首を取る作法がありました。

ただ、首狩り族などの場合とはちょっと違います。首刈りは、
ほとんどが宗教的な意味を持っていて、人間の頭部に霊的な力が宿るという
信仰によるものです。それに対し、日本の場合は主に、
討ち取った相手を確認・識別するために行われました。

「首級を上げる」という言葉がありますが、これは、中国の戦国時代、
秦の国の法で、敵の首を一つ取ると兵士の階級が1つ上がったことからきています。
この風習が日本に伝わったのだと考えられますが、じゃあいつから始まったか
というと、古代の戦争の様子はあまりよくわかってないんですね。

吉野ケ里遺跡の首なし人骨
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九州の吉野ケ里遺跡などでは、弥生時代の戦闘で死んだ首なし人骨が
発掘されていますが、これはおそらく、上記の首刈りに近いものでしょう。
また、処刑として首を斬ることも古くからありました。
『日本紀略』では、802年、東北遠征に赴いた坂上田村麻呂が、
蝦夷のアテルイとモレを捕虜にして、近畿地方まで連れてきました。

田村麻呂はこの両名の助命を願いましたが、平安貴族の反対にあって、
河内の国で首を落とされています。この場合は明らかに処刑ですね。
940年、関東で乱を起こした平将門は、藤原秀郷らの連合軍に破れて
首を取られ、その首が長期間かけて京都まで運ばれました。

獄門にされた平将門の首


これは、将門に影武者がいたこともあり、朝廷が確実に死んだことを
確認したかったからです。将門の首は京都で晒されることになりますが、
これが歴史上で、獄門が行われた初の事例なんですね。この様子が
恐ろしかったためか、後代に、将門怨霊説がささやかれることになります。

晒されていた将門の首は突如宙に飛び上がり、故郷の関東をめざして
消えていったとするものです。その首が落ちたとされる場所はいくつもあり、
東京の千代田区にある首塚は、騒がすと祟りがあるとされています。
荒俣宏氏の小説、『帝都物語』の影響もあって、
将門は日本最大の怨霊とまで言われるようになりました。

さて、源平の合戦の頃には、首を取ることが作法として始まっていたようです。
『平家物語』では、一ノ谷の戦いで、熊谷次郎直実が、波打ち際で平家の
武者を組み伏せ、鎧の様子から高貴な武将であると見て首を取ろうとしたが、
顔を見ると自分の息子ほどの若さ。逃してやろうとしても、
味方が近くまで来ており、泣く泣く首を斬ったという話が出てきます。

平敦盛と熊谷直実
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この武将は、首実検で、清盛の甥の平敦盛15歳とわかり、遺体の腰に
「青葉の笛」が挿されてあったことから、その風雅の心に感じて、
源氏方もみな泣いたとされます。あと、斎藤実盛という人物が、


木曾義仲追討のための北陸の戦いで討ち死にしますが、
首実検で首を洗うと、墨が流れ白髪頭が現れました。
老齢とあなどられることがないよう、髪を黒く染めていたんですね。

また、平泉で討ち取られた源義経の首も、酒に浸して鎌倉に送られました。
道中、43日間もかかったため、腐敗して判別がつかなかったと考えられます。
ここから、義経が東北を北へ落ちのびた、北海道へ渡った、
大陸でジンギスカンになった、などの話が出てくるわけです。

さて、鎌倉時代の元寇では、日本軍は多くの蒙古兵の首を討ち取りましたが、
これは敵の首が即、恩賞につながったからです。
1467年には応仁の乱が起こり、戦国時代が始まりました。
このとき以来、農民出身の者も雑兵として戦闘に参加するようになったため、
軍規が厳しくなり、首実検の作法も固まっていきました。

戦国時代の首取りの様子 首を取っている人がさらに取られている
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取られた首は、武家の婦女によって死化粧が施されました。
これは、見るに堪えない無念の形相の首が多かったためとも言われます。
武将の首は髪を結い直し、お歯黒もつけました。このとき、
「諸悪本末無明 當機実検直 義何處有南北」という呪文?を唱えると、
その首は祟らないとされたようです。

これ、いまいち意味がわからない文章です。「諸悪は本来、無明である。
機にあたり直に首実検する。義は南北のいずこにありや。」うーん、
善悪ではなく、運が悪くて死んだんだよ、くらいの意味でしょうか。当時、
戦場での死者は祟らないなどとも言われましたが、実際には怨霊は

怖れられていて、取った首を自分の城に持ち込むのはよくないとされました。

ですから、首実検は近くのお寺などを借りて行われたんですね。実検が

終わった首は、獄門にさらされる場合も、相手方に返される場合もありました。
雑兵の首などは捨てられたようですが、そのときも祟りがないよう、
北の方角に持っていきました。これは「北」を「にげる」と読むためです。

これは展示物で、本物ではありません
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織田信長は、討ち取った浅井久政・長政父子と朝倉義景の3つの頭蓋骨を

磨いて、箔を貼ったものを酒宴で披露しましたが、これは極めて異例で、
仏法を信じず、霊を怖れることがなかった信長の性情がよく表れた話です。
秀吉の朝鮮出兵では、日本軍は多くの朝鮮、明兵の首を取りましたが、
日本への輸送が困難なため、かわりに鼻や耳を削いで箱に詰めて送りました。

さてさて、大急ぎで「首を取る」歴史をふり返ってみました。
武士の歴史は残忍なものですが、切腹なども含めて、様式化され 

美化されていきました。坂口安吾の小説、『桜の森の満開の下』は、
斬られた生首の持つ魔力に魅入られた女の話です。では、今回はこのへんで。

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