今日は軽めの雑談でお茶を濁します。
西洋の「悪魔」は怪談に使えるか? ということで考えてみたいと
思います。実は自分も何度か挑戦してみてはいるんですが、
どうも、これはと思うものはできていません。どうして悪魔怪談が
難しいか。これにはいろいろ理由がありそうです。

一つには、一般的な日本人には悪魔のいる世界
という概念がないからでしょう。キリスト教では、
絶対者である神がいて、その敵対者である悪魔がいる。
悪魔はつねに人間の傍らにいて、心の弱みにつけこんで堕落させようと
している。人の魂は台の上でふらふら揺れるやじろべいのようなもので、

いつ何かのきっかけで悪魔の側に堕ちるかわからない。
そうならないために、日常、信仰心を堅固に保っていなくてはならない。
このような神と悪魔の駆け引きが続き、やがて世界は、
善と悪との最終決戦であるハルマゲドンを迎える。

あc

こういうのはさすがに、想像の外であるという人が多いと思われます。
「あ、後ろに幽霊がいる」と言われてぎょっとすることはあるでしょうが、
「あ、後ろに悪魔がいる」と言われてもぴんとこない。
まあ、そういう世界観の中にいないということです。

映画の『エクソシスト』は大ヒットしましたが、
主演の少女の首が回転するなどのショックシーンをのぞけば、
キリスト教圏の人と、一般的な日本人では恐怖を感じる点は、
かなり異なっているのではないかと思われます。



これは悪魔を主題としたホラー映画 『オーメン』 
『ローズマリーの赤ちゃん』 『エンゼルハート』
最近のでは『パラノーマル・アクティビティ』なども、
そういう面があるんじゃないでしょかね。

余談ですが、『パラノーマル・アクティビティ』で、霊障の専門家が、
怪異が起きている家の中を一通り見て、
「私は心霊が専門だから、悪魔の事件はそっちのプロに頼みなさい」
と言って逃げてしまうところが興味深かったです。

もう一つ、これは怪談を書く場合ですが、
悪魔の話を組み立てようとすれば、どうしても出てくる小道具が
バタ臭くなってしまいます。十字架、聖水、祈祷書・・・どれを出しても
違和感があり、日本の「怪談」という雰囲気が損なわれる気がします。



やはり怪談というのは、浴衣、蚊帳、お線香など、
日本的な情緒の中でこそ生きるものではないかという気がしますね。
と、ここまで書いて思いあたったのが、横溝正史の諸作品です。
氏の長編は、伝奇的、土着的な傾向の強い推理小説なんですが、

『悪魔の手鞠歌』 『悪魔が来たりて笛を吹く』など、題名に
悪魔出てくるものがありますね。このあたり、どうしてこういう題名に
したのか、西洋推理ものの影響なのか。その効果はどうなのか、
少し調べてみたいなという気がします。

前に少し書きましたが、ショートショートには「悪魔との契約」をテーマとした
ジャンルが確立されています。「三つの願い」テーマと重複している場合も
多いです。これはホラーというより、召還者がっどうやって悪魔を出し抜くか、
また、出し抜いたつもりが、したたかな悪魔に、



どうやって裏をかかれてしまうかという知的興味が中心になっていて、
そういうのもナンセンス話としては書いてみたいですが、
「怪談」とははっきり違うものです。うーん難しい・・・やはり書くとすれば、

悪魔を信奉する秘密結社のようなのが、何か陰謀を企んで暗躍していて、


主人公がそれに巻き込まれてしまう形とか、
そっち方面にいくしかないのかもしれません。
これも余談ですが、自分は、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』が

大好きで、蝿の王は悪魔バールゼブブの別名ですが、


作品中では蝿のたかった腐った豚の頭のことでした。超自然的なことを
何も出さずに、あれだけの恐怖と禍々しさを醸し出せるというのは、

一つの理想であり、話の中に確かに悪魔の姿が見えます。

では、今回はこのへんで。