今回はこういうお題でいきたいと思います。
カテゴリは「怖い日本史」に入りますが、特に怖い話ではありません。
時期は幕末、登場する人物は、間宮林蔵とフランツ・フォン・シーボルト。
1825年、幕府により異国船打払令が出され、日本と外国の間で、
緊張が高まっていた時代です。

間宮林蔵は偉人として知られ、伝記も出ていますし、茨城県つくばみらい市には
間宮林蔵記念館がありますが、これは彼が同地出身のためです。
農民の家庭に生まれましたが、幕府の利根川干拓事業に参加し、
ここで地理や算術の素質を見込まれて、幕府の下役人に採用されました。

間宮林蔵
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さて、俳人・松尾芭蕉には幕府隠密説がありますよね。
紀行文から推測できる芭蕉の健脚ぶり、伊賀出身であること、
日本各地に弟子がいて活動拠点となっていたことなどから、
隠密として各藩の動静を探っていたのではないか、などと言われます。
しかしこれはあくまでも噂で、客観的な証拠はありません。

それに対し、間宮林蔵ははっきりと公儀隠密、御庭番であることが

わかっています。おそらくですが、幕府の下役人として採用されたときから、
隠密としての訓練を受けたのではないかと思います。林蔵は、測量による
はじめての日本全図を完成させた伊能忠敬に測量技術を学びます。

その後、幕府の命により西蝦夷地を探検し、ウルップ島までの地図を作製。
さらに、1808年から翌年にかけて樺太島を探検し、
樺太が島であることを確認しました。樺太と大陸の間の海峡は「間宮海峡」とも
呼ばれますが、世界地図に日本人の名が記されるのはこれが唯一の事例です。

間宮海峡
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また、林蔵はこのとき、海峡を渡って大陸に上がり、
アムール川下流域を調査しています。本来、日本人が許可なく海外に出ることは
厳しく禁じられており、死罪に相当するんですが、隠密である林蔵には何の

咎めもなく、後に林蔵は、幕府にこのときの報告書を提出してるんですね。

このあたりの行程を調べてみると、短期間にかなりの距離を移動しており、
極寒の中での活動だったことを考えると、林蔵には超人的な体力があったようです。
また、林蔵は変装の名人としても知られていて、乞食、商人、アイヌ人など、
何にでも化けることができたと記録に残っています。

林蔵の隠密活動は研究によってかなり明らかになっていますが、
島根県の浜田藩の密貿易を暴いたときには、商人に変装して廻船問屋に潜入。
隠密に厳しく対処していた薩摩藩でも、経師屋の弟子に化けて
城内まで入り込み、詳しい城内見取り図を作成しています。
スパイとしては、実に有能な人物だったんですね。

さて、フォン・シーボルトですが、オランダ人だと思っている人が
多いんじゃないでしょうか。じつはドイツ人で、医師の資格を持っており、
博物学者としても知られていました。オランダ政府に雇われ、
オランダ商館の医師として、1823年に初来日しています。

シーボルト
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翌年、出島内において鳴滝塾を開設し、西洋医学の講義をしました。
主な門下生には高野長英などがいます。まあ、このあたりまでは歴史の教科書に
書いていることですが、シーボルトには日本の内情を調査するという役目も

ありました。これもスパイの一種と言ってもいいでしょう。博物学とは関係のない、
日本沿岸の水深を測量したりしてますので、まず間違いないところです。

シーボルトと林蔵は交流がありました。シーボルトが、林蔵の樺太探検を
高く評価し、大々的にヨーロッパに喧伝したことで、
地図に「間宮海峡」の名が載るようになったんですね。シーボルトは樺太の
植物に興味を持ち、林蔵に標本を要求したりしています。

で、シーボルト事件が起きるのが1828年です。
シーボルトは帰国直前、林蔵に手紙を送りますが、林蔵はそれを幕府に提出。
その中に、幕府天文方の高橋景保と交流していたことなどが書かれており、
シーボルトの船から日本地図が見つかったことで、
景保をはじめとする多くの日本人が捕らえられました。シーボルト自身も、
帰国は中断され、一時軟禁状態となります。

高橋景保
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この後、高橋景保は獄死。その子どもらも遠島になりましたが、
景保の父、高橋至時は林蔵にとって伊能忠敬と並ぶ師であり、
恩人の息子を密告したとして、林蔵は「幕府の犬」 「冷血な忍者」と、
日本の蘭学者の中で忌み嫌われるようになったんですね。

 

このあたり、実情ははっきりしませんが、オランダの国際スパイと

日本の公儀隠密が、1枚の地図を巡って激突したと考えれば、
歴史の新しい側面が見えてくるかもしれません。

 



さてさて、この後、シーボルトは日本への再入国を禁じられ、
1830年、オランダに帰国。この事態を予測していたため、
日本地図はとうに写しが作られており、
彼が採集した数々の標本とともに、持ち出されることになりました。

帰国後のシーボルトは、日本関係の著作を多数ものにして、
ヨーロッパの日本研究の第一人者となります。日本は1854年に開国。
1858年に日蘭修好通商条約が結ばれた翌年、
シーボルトは30年ぶりの再来日を果たすんですね。

また、林蔵は農民出身であるにもかかわらず、その才能が高く評価され、
老中大久保忠真に重用され、水戸藩主徳川斉昭の招きを受け、
水戸藩邸で講義を行ったりしています。晩年は病により体が衰え、
隠密としての仕事もできなくなり、1844年、シーボルトの再来日を
待たずして亡くなりました。では、今回はこのへんで。

「伊能図」
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