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今回はこういうお題でいきますが、これ、書く気になれば、
ぶ厚い本の何冊分にもなるような内容を含んでるんですよね。ですから、
ほんのさわりを紹介するという形にしかならないと思います。
さて、「売春は世界貴古の職業」という言葉がありますが、盗みというのも、
人間の歴史が始まったごく初期からあったものと考えられます。


古代日本についての、最初のまとまった資料である『三国志』魏志倭人伝には、
「不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族」と出てきます。
(倭人は)盗みをせず、訴訟は少ない。法を犯した者については、
軽い場合は妻子を没し(奴隷とし)、重い者は一族を没する。

 



ここでは、当時の倭国は犯罪の少ない社会であったように書かれています。
中国の史書が他の蛮夷の国について記述する場合、その道徳性を評価した
内容が記載されることが多いんですね。ただまあ、
これが実際の当時の様子を表しているかどうかは、はっきりしません。

さて、やや時代が下って、古墳時代の528年、九州の地方豪族が
ヤマト王権に反旗を翻した「磐井の乱」が起こります。この磐井の墓と

見られる岩戸山古墳は全長約130m、北部九州最大の前方後円墳で、
墳丘上に多数の石人・石馬が立てられていました。討伐された磐井の墓が
残っているのは、おそらく生前から造られていたためでしょう。

岩戸山古墳の石人
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奈良時代に編纂された『筑後国風土記』には、「イノシシを盗んだ裸の罪人が
裁かれる場面を石人で現していた」と書かれています。磐井は国造(こくぞう)で、
その土地出身の裁判権・警察権を持った豪族でした。これがだんだんに、
中央集権の官である国司(こくし)に変わっていくのが、ヤマト王権の歴史です。

さて、個人として名前が通った盗賊は平安時代に出ます。袴垂(はかまだれ)
保輔ですね。この人物、藤原氏に連なる下級貴族ではなかったかと
見られています。公的な宴で傷害事件を起こして逃げ、その後も強盗を重ねて、
朝廷から、捕らえたものには恩賞を与えるという賞金首となりました。

袴垂保輔
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『今昔物語』には、袴垂のエピソードがいくつか出てきますので、
ご紹介しましょう。袴垂が金がなくなって、裸になって道で死んだふりを

していたところ、馬にまたがった立派な武士が、大勢の家来をつれてやって

きたが、横たわった袴垂の姿を見ると、まず従者に様子を見に行かせた。

従者が戻ってきて「死人でございます」と答えると、武士は馬から下り、
弓をつがえて寝ている袴垂に向け、狙いをそらすことなく、そろそろと通り過ぎて

いった。これを見た往来の人々は、「なんて臆病な武士だ」とあざ笑った。
そこへまた別の武士が騎馬でやってきて、「何で死んだのか、哀れなものだ」
と言いながら、弓の先で袴垂をちょんちょんとつついた。

 

日本駄右衛門



すると急に袴垂は起き上がり、弓をつかんで相手を馬から引きずり落とし、
武士の刀を抜いて刺し殺し、着物や武器を奪うと、馬にまたがってどこへともなく
逃げていったという話が載っていて、最初に通りかかった武士は、
武名高い源頼光四天王の一人、碓井貞光だったということになっています。

で、この袴垂保輔ですが、捕らえられた後、牢獄の中で自殺を図り、
自分の腹を刀で突いて内臓を引きずり出し、翌日に死んだとされます。
これが、日本での最初の切腹だったという話があるんですが、
真偽のほどはよくわかりません。

石川五右衛門
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さて、日本で最も有名な盗賊というと、石川五右衛門じゃないでしょうか。
安土桃山時代、豊臣秀吉の治世の頃の人物で、辞世の句として、
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」と詠んだとされます。


石川の浜の砂がすべてなくなったとしても、いつの世になっても盗みや盗人が
なくなることはないだろう、という意味ですが、もちろん後世の偽作と

考えられます。石川五右衛門は、歌舞伎や講談で有名になりましたが、

実態はよくわかっていません。ペドロ・モレホンという宣教師が、

 

「石川五右衛門という盗賊が、家族10人あまりと釜茹での刑になった。

その他20人ほどの仲間が磔になった」と書き残しています。
これが史実のすべてで、伊賀忍者の総帥、百地三太夫の弟子だったとか、
秀吉の持つ千鳥の香炉をねらって伏見城に忍び込んだとか、

釜の中で油が煮えてくると、自分の子を頭上にさし上げていたが、
熱くなって油に引火し釜が火につつまれると、子を沈めて死なせてしまった。
観衆が、「命が惜しくて自分の子を下にするのか」とあざ笑うと、
「馬鹿者が、子どもが苦しまないよう早く死なせてやったのよ」と答えた・・・
などなど、これらはみな、根拠のない作り話なんですね。

鼠小僧次郎吉
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あとは、鼠小僧次郎吉が有名ですか。江戸時代後期の盗賊で、
義賊伝説が残っています。盗んだ金を貧しい人に分け与えたというものですが、
そういう公的な記録はありません。これも歌舞伎で創作されたものでしょう。
ただ、次郎吉は徒党を組まず、つねに単独犯だったこと、

人を殺傷しなかったこと、盗みに入ったのは武家の屋敷だけで、
合計3000両以上を盗んだと見られることなどから、義賊としての
話ができあがったものと考えられています。次郎吉は捕らえられ、

市中引き廻しの上、打ち首、獄門となりましたが、

多数の野次馬が押しかけた記録が残っていますね。

さてさて、やっぱり長くなってしまいました。こうして見ると、
袴垂保輔、石川五右衛門、鼠小僧次郎吉、3人とも捕まって刑死(自死)

しています。昔から、日本の警察力は なかなかたいしたもの

だったんですね。ということで、今回はこのへんで。