あんまり怖い話じゃないんですけど、いいでしょうか。一口で言うと、
しみの話なんです。あれ、いや、ネコの話かな。やっぱりしみなのかな。
自分でもよくわからなくなってしまいました。まあ、どっちにしても、
かなり長い期間にわたる話です。はじめは、父の仕事の転勤で引っ越していった

社宅で、私が小学校4年のときのことです。社宅といっても、父の会社で

借りてる一軒家で広かったです。2階建てで、2階に二間あって、
そのうちの一つが私の部屋になったんです。
それまでは一つの部屋で両親と寝てたんですが、
初めて一人で寝ることになって。やっぱり、最初のうちはちょっと怖かったです。
けっこう古い家だったので、天井にしみがあったんですよね。ベッドに

寝転んでそれを見てると、どれもこれも中に人の顔が隠れてるような気がして。

でも、ちょうど私の頭の上にあたる部分に、横に長いしみがあって、
それが、体を伸ばして走り出そうとしてるネコに見えたんです。
足が四本ありましたし、体のわりにやや小さい頭と、ピンと立った2つの耳。
「ああ、あれネコちゃんだな」そう思ったら、他のしみがあんまり怖くなくなり

ました。その家には4年間いましたので、ずっとそのネコを見て眠りました。
いえ、動き出すなんてことはなかったです。しみはしみだってわかってました。
それから、父は本社に戻ることになって、役職も上がったので、
もう転勤はなくなり、そちらの市に家を建てることになりました。
それで、引っ越すときに、私はそのしみに向かって、
「ネコちゃんバイバイね」って別れをつげたんです。
そのとき、私は中学2年になってました。新しい家の自分の部屋は、

新築ですから、もちろん天井にしみなんかはありません。
私は、転校した先の中学校になじむためにあれこれと必死で、
翌年は3年生、高校受験がありました。
そんなこんなでバタバタと時間が過ぎていったんですが、
新しい家には庭があって、そこにちょくちょくノラネコが現れるように

なったんです。黒猫で痩せていましたが、毛並みはつやがよく、
前足を折り曲げて伸びをするところなんか、
前の社宅にあった天井のしみにそっくりでした。そうですね、1週間に2度ほど、
うちの庭を通ったと思います。一度、母といっしょにベランダにいたとき、
そのネコが姿を現したので、「あのネコかわいい。飼いたいな」って言ってみた
ことがあるんです。でも、母は、「ノラだし、もう大人のネコだから、

人には懐かないでしょう」って。ええ、たしかに、いつもあたりを警戒してる

様子で、呼びかけても、一瞬身を固めてから素早く逃げていくだけでした。
ええ、一度も体に触ることはできなかったです。じゃあ、ペットショップで

ネコを買えばいいじゃないかって思われるかもしれませんけど、
それは、父が反対してたんです。それはそうですよね。
何十年のローンを組んで建てた新築の家ですし、そこらにオシッコをされたり、
柱に爪で傷をつかられたりするのが嫌だったんでしょう。
その家では5年間を過ごしました。その間中ずっと、黒猫の姿は見かけていました。
両親には内緒で、通り道に餌を置いてたこともあるんです。
餌はなくなってたので、きっと夜の間に食べてたんだと思います。
それで、私が大学の受験をひかえた高3のときです。

父が急死しました。車の自損事故です。私用で高速を運転しているとき、
ハンドル操作を誤って道脇のコンクリートの高架の橋桁に衝突して、
即死だったんです。ブレーキ跡がなく、警察では居眠りが原因ということに

されました。ええ、仕事上の事故でもないし、労災にはなりませんでした。
会社からは退職金が出ましたし、少額ですが生命保険にも入ってましたが、
母は主婦だったったため、それからの暮らしには困りました。
それで、まだまだローンが残っている家からは出ることになったんです。
ええ、私は一人っ子でしたし、母と2人で暮らすには広すぎるってこともあって。
その家を引っ越すとき、ちょうど庭にあの黒ネコが来ていました。
母の運転する軽自動車の窓から、ネコに向かって手を振りましたが、
黒ネコは立ち止まったまま、ずっと私たちを見つめているだけでした。

このことをきっかけに、私は進路を変更して、コンピュータの専門学校に
行くことにしました。大学進学をあきらめたということではないんです。もともと

あんまり勉強ができるほうではなかったし、そのことにべつに悔いはありません。
2年間、しっかりエクセルなんかを勉強して、早く就職したかったんです。
アパートに引っ越して、母は老人ホームに職を見つけて働きに出るようになり、
私は学校のある街で別のアパートに、別々に住むようになりました。学費は

母が貯金を切り崩して出してくれましたが、アパート代なんかは、私がバイトを

かけ持ちして払ったんです。それで、その専門学校時代の部屋ですけど、
やっぱり天井にネコに見えるしみがあったんです。ええ、最初に見つけた社宅の

ものとそっくりで、不思議だなあって思いました。まるで、ネコを飼ってる

わけじゃないのに、ずっとネコといっしょに暮らしてきたみたいな。

ああ、すみませんね。ここまでのところ、私の身の上話ばっかりで、
怖いことも不思議なことも起きてないですよね。それから・・・私は事務員として
ある会社に就職し、そこで現在の夫と知り合って結婚したんです。
新居は賃貸マンションになりました。2部屋の、マンションとは名ばかりで、
アパートに毛の生えたようなところです。そこの天井には、
さすがにネコのしみはありませんでした。
それで、幸せな新婚生活のはずでしたが、私の体調が悪くなったんです。
そのときは会社は退職して主婦のまねごとをしてたんですけど、
朝、頭が重くて起き上がることがなかなかできなかったんです。
小さい頃から健康だけが取り柄だったのに、家事もままならないありさまで。
もちろん病院に行って詳しい検査を受けたんですけど、どこにも異常はなし。

でも、食欲もなく、体重がどんどん減っていって・・・それと、夫との仲も

うまくいかなくなってきたんです。ええ、私のほうに原因がありました。
いつも重い頭痛があったせいか、夫の言うこと、やることすべてが気に入らず、
トゲのある言葉を口にしてしまって。わずか新婚1ヶ月でそうなって

しまったんです。あと、夜に夢を見てうなされるようになったんです。私が

一人で鏡に向かっている夢です。そのうち、鏡の中の自分の顔がだんだんに

歪んできて、手で押さえるとどろどろと崩れ、悲鳴を上げて目をさますんです。
ほとんど毎夜のことで、病院で眠剤や安定剤をもらっても、同じ夢が続きました。
そんなだから、夫はだんだん帰りが遅くなり、お酒を飲んでくることも多くなって、
それがまたいさかいのタネになりました。それで、ある夜のことです。
その日も夫は遅く、私は寝室のベッドで一人でうとうととしていました。

そのとき、寝ている自分の横に何かがいるような気がしたんです。
でも、そっちの側はベッドをくっつけてる壁で、そんなスペースはありません。
でも、気になってしかたがないので、そろそろと体の向きを変えていくと、
枕元にネコが一匹いたんです。「え!?」と思いました。
だって、部屋は8階で、ネコが入ってくるなんてありえない。でも、たしかに

黒ネコがいて、あの亡くなった父と住んでた新築の家の庭で見てたのと
そっくりに思えました。手を伸ばそうとしたんですが、体が動かない。
金縛り状態になってたんです。ただ眼は動きました。ネコは立ち上がって、
頭の上のあたりの壁をガリガリとひっかき出しました。
すぐにその部分の壁紙がはがれて、白い建材がむき出しになり、
それでもネコは、いつまでもいつまでも壁をかきむしるのをやめずに・・・

そこで意識が途切れたんです。「おい、どうした」という声とともに揺り起こされ

ました。見るとベッドの脇に夫が立っていて、「大丈夫か、手をどうした?」

って聞いてきたんです。私の手は両方とも血だらけで、爪が何枚かはがれかかって

たんです。はっとして、ネコが引っかいてた壁を見ました。やはり壁紙がはがれ、
中から断熱材が出てきてたんです。これ、私がやったのか・・・
そのとき、壁の中に何か光るものがあり、痛い手で引っぱり出してみました。
古い小さな手鏡で、鏡面はひび割れて、後ろ側に何か読めない字のようなものが
書いてあったんです。これで、話はほとんど終わりです。その手鏡は、夫と

相談して、近くの神社に持っていきました。それから私の体調は嘘のように

回復し、夫との関係もよくなりました。ええ、今は幸せです。ネコは・・・

それ以来、姿を見ていません。すみませんね、こんなとりとめもない話で。