今から30年以上前の話です。当時 私は、中堅どころの旅行代理店で、
添乗員をしていたんです。入社して3年目のことでした。
それまでの2年間は国内旅行の添乗で、その年になって、
初めて海外に出ることができたんですが、それがすべての事の始まり
だったと思います。あれは10月のことでした。
田中さんという先輩と2人で、「東欧古都めぐり」というパックツアーに
添乗しました。私は、初海外ということですごくはりきってましたので、
田中さんに、「あんまり気張ると、帰ったらバタンキューだよ」と
たしなめられたくらいでした。当時は、まだソ連は完全には崩壊していません
でしたが、もう末期で開放政策が進み、旅行などもだいぶ自由になってました。
それがあってできたツアーだったんですね。

ツアーの参加者は18人だったと思います。60歳過ぎの、
仕事を定年退職された方がほとんどで、ご夫婦も多かったです。
中に一人、吉川さんという、一人旅の70代の男性の方がいました。
吉川さんは現役の大学教授で東欧史を専門とされていて、その関係でツアーに
参加されたということでした。チェコ語やポーランド語がペラペラで、
お客様に頼るわけにはいかないんですが、すごく心強かったんです。
私、外語大卒業で、大学では英語とフランス語を専攻し、東欧の言葉は

まったくできませんでした。はい、向こうのホテルなどはもちろん、
税関でも英語はほとんど通じないんです。田中さんも東欧の言葉は話せない。
じゃあどうするのかというと、都市ごとに、会社が契約した
現地ガイドがいるんです。その人たちは英語かカタコトの日本語が通じて、

何かトラブルが起きたときに対処してくれました。当時の東欧は今とは

違って治安もよく、難しいツアーではないはずだったんですが・・・
3日目の朝でした。ある国の、首都ではないですが歴史の古い街に
泊まったときのことです。ホテルのレストランで朝食をとる予定でしたが、
吉川さんが時間になってもお見えにならず、私が部屋に迎えにいきました。
ドアをノックすると「どうぞ」という声がしたので入ると、
吉川さんはイスに腰掛けて窓の外を眺めておられたんです。
私が、「朝食の時間ですよ」と言うと、「ああ、すみません。今行きます。
 ちょっと興味深いものを見かけたのでね」と、窓の外を指さしました。
そこは3階の部屋でしたが、かなり離れたところに、
大きな十字架が立ってたんです。そのあたりは高い建物もなく、

民家の屋根の間から、空に向かって巨大な十字架が突き出してました。
はっきりわかりませんが、10m以上はあったと思います。
10mというと、ビルの4階ほどですよね。周囲に比べて違和感が

ありました。それと、その十字架、赤い色をしてたんです。
鮮やかな赤というわけではなく鉄錆のような色でした。吉川さんは、
「この国も共産圏に入って、教会なんかは取り壊されたと聞いてたけど
そうでもないんだねえ」と話され、そのときはそれで終わりました。
朝食が終わり、契約していたバスが来たのでホテルの外に出たとき、
さっき見た十字架を探したんですが、方角が違うのか見えませんでした。
そのバスは、次の目的地まで3時間ほど走るんです。
その都市の、美しいけれども陰気な街並みを抜けかかったところで、

バスの後ろのほうでキャーッという悲鳴が上がりました。「どうされました?」
私が見にいくと、座席で吉川さんが白目をむいていたんです。
肩に手をかけると鼻からどっと血があふれ、半開きの口に流れ込んでいきました。
すぐに田中さんもやってきて、その国では救急車などは来ないということで、
そのバスのまま大きな病院に行ったんです。吉川さんは息をしていないように
思えましたが、どうすることもできず、とりあえず体に毛布をかけました。
そのとき、吉川さんの膝の上に手帳が広げられていることに気がついたんです。
私にはわからない言葉で単語が3つ書かれていました。田中さんが病院に残り、

その後も私は旅を続けましたが、その夜になって、吉川さんは亡くなった

という連絡が入りました。脳溢血ということでした。私は、ツアー中に

お客様が亡くなるということは初めてでしたので、ショックでした。

田中さんは、「稀にはあることよ、気にしてもしょうがない」と慰めて

くれました。どうにかこうにか日本に戻ってくると、数日休みがあったんです。
私は実家に戻りました。私は一人暮らしでしたが、両親と妹が実家にいて
たまに帰るとすごく落ち着くんです。そのとき母に、東欧ツアーであったことを
話したんです。吉川さんが亡くなった前後のことですね。翌日の夕方、

私が自分のアパートに帰ろうとしたとき、母がこんなことを言いました。
「昨日の夜ねえ、あんたに話を聞いたせいか、変な夢を見たよ」
「へえ、どんな?」 「灰色の空があって、そこに赤い十字架が立ってる夢。
ただそれだけなんだけど、気味が悪かったねえ」それを聞いたとき、
嫌な予感が強くしたんです。でも、どうすることもできないですよね。
「お母さん、とにかく体に気をつけてよね」そう言うのが精一杯でした。

翌日、両親が亡くなりました。少し膝が悪かった父を、母が運転する車に乗せて
病院に行く途中、交通事故にあったんです。急に横道から出てきた大型車に

ぶつけられ、母は即死、父は半年ほど入院して亡くなりました。・・・心が

壊れそうでしたが、妹はまだ高校生でしたし、父親のつきそいや母の葬儀の準備、

加害者との交渉、そういうことは私がやるしかなかったんです。会社のほうには
そうした事情を考慮していただき、しばらくの間、内勤にしてもらいました。
すべてが終わって、私が立ち直るまで2年近くかかりました。
それからまた添乗員に復帰したんです。ええ、自分のほうからやらせてください、
って申し出て。気が紛れると思いました。ただ、東欧ツアーはなく、
ローマやパリが中心でしたね。その頃、私に恋人ができたんです。
彼は、関連会社でバスの運転をしていました。結婚に向けて話が進んでたんです。

彼の両親は、私の親が事故死していることは気にせず、結婚を喜んでくれて

いました。それで・・・ある日、彼が私の部屋に泊まった日の朝です。
起きがてら、「変な夢を見たなあ。ただ赤い十字架が立ってる空を、えんえんと
眺めてるだけの夢」それを聞いて、心底ぞっとしました。「まただ」
吉川さんの死のこと、両親の死のこと、赤い十字架のこと、混乱しながらも

それらのことを話したんです。彼は真面目な顔で聞いていましたが、
「わかった、十分気をつけるよ」と言いました。当分仕事を休んでほしい・・・
でも、そんなことできるわけもありません・・・もうおわかりですよね。
2日後、彼は自分が運転していたバスの中で亡くなりました。
運転中の心臓発作ということでしたが、心臓の持病などはなかったんです。
不幸中の幸いというか、バスはお客様を降ろした後の回送中で、
道路上でも他の車や通行人を巻き込むことはありませんでした。

このことから立ち直るには長い時間がかかりました。いえ、まだ立ち直ったとは
とても言えません。私は会社を休職して心療内科に通いました。
一時は、拒食のために体重が20kg近く減り、いつも死ぬことだけを

考えていました。でも、死ぬことはできませんでした。悔しかったんです。
赤い十字架、それが何なのか確かめなくてはという思いが強くなって、
当時はネットはありませんでしたので、その東欧の古い都市について、
いろんな本を読みましたが、赤い十字架について書いてあるものはなし。
それで、一人で旅に出たんです。でも、土地の人も誰も、そんな十字架のことは
知りませんでした。地図にも載っていません。あのツアーで泊まったホテルにも、
もちろん行きました。吉川さんの泊まった部屋が空いていたので、
フロントでチップを払い入らせてもらいました。

でも、窓からは、あの日の赤い十字架はどこにも見えませんでした。ホテルを

飛び出し、こっちだという方角に歩きました。石畳のごみごみした小路を
抜けると、ちょっとした広場がありました。小路が何方向にも伸びている
真ん中の場所、ヨーロッパの古い街にはよくあるんです。
その中央に植え込みがあり、その中央にこぶし大の石が1mほど積み上げられ、
見たことのないもので、その前にはロウソク立てが置かれてました。
日本のお堂のようなものだろうか、それにしても・・・と考えていたとき、
近くの家から年配のベールをかぶった女性が出てきて、ロウソクを新しいものに
替えようとしました。話しかけましたが、英語もフランス語も通じず、
石積みを指差すと、その人は私の手を強く払って、同じ短い言葉を何度も

叫びました。意味はわかりませんでしたが、あのとき吉川さんが手帳に書いた

単語と同じものじゃないかと思ったんです。怒ってるというか、おびえた

感じのその人にお金を渡し、言っていることを手帳に書いてもらいました。
頭を下げてその場を後にし、前に現地ガイドを務めてくれていた
男性に連絡したんです。契約はずっと前に途切れていたので、なかなか
見つからなかったんですが、やっと居場所がわかり会うことができました。
石積みのことを聞きましたが、何も知らないということでした。
ただ、「この街は、ソ連軍が侵入してきたとき、またそれ以前にも、
あちこちで血が流れてるから、それと関係したものなのかもしれない」
そういう話をしてくれました。手帳を見せると、顔をしかめ、
「誰が書いたんだ、これ、よくない言葉だよ、呪い。日本語だと、そうだなあ、
死がそばに寄りそう、みたいな感じ」こういう答えが返ってきて、
私の見ている前で、その手帳のページを粉々に引き裂いたんです。