今回はこういうお題でいきます。ただこれ、かなり地味な日本史の話で、
人間関係も入り組んでいるので、なるべくわかりやすく書きますが、
興味がある方以外はスルーされたほうがいいかもしれません。
さて、玄昉という人物、みなさんご存知でしょうか。「げんぼう」と読みます。
奈良時代の遣唐使僧で、きわめて優秀な人だったと考えられます。

玄昉の像
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どのくらいかというと、唐の都長安で17年間法相学を学びましたが、
その間、ときの玄宗皇帝から紫の袈裟を賜っているほどです。
日本に帰国するときも、中国に残るよう引きとめられました。
占いで、日本に帰国すると悪いことが起きると出たんですね。
当時の遣唐使船は航海時に難破することも多く、命がけでした。

玄昉は5000巻以上の経典をたずさえて船に乗り、やはり船団は
嵐で遭難したんですが、玄昉と同僚の吉備真備が乗っていた船だけが
種子島に流れ着いて助かっています。これは船の中で玄昉がずっと
「海竜王経」を唱えていたため、仏の加護があったからとされます。
こうして、玄昉が大宰府をへて奈良の都へ帰京したのが735年。

吉備真備
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さて、日本で首が宙を飛んだ人物といえば、平将門が有名ですね。
関東で謀反を起こしたものの討伐され、その首は京都で獄門に
さらされましたが、毎日のように「関東へ戻ってもう一戦やる」と
吠えたて、ついには空を飛んで関東をめざし、その途中で力つきて
落ちた場所が今の首塚である・・・ということになっています。

もちろんこれは伝説ですが、玄昉の首もまた空を飛んだ伝説が残って
るんです。ただ、将門の話と違うのは、将門が自分自身が
怨霊となったのに対し、玄昉の場合は、怨霊によって体をつかみあげられ、
後日、首だけが興福寺に落ちてきたことになっているところです。



これは、正史である『続日本紀』に出てきますので、亡くなった当時から
怨霊のために殺されたと信じられていたことがわかります。
この詳細については、『平家物語』 『今昔物語』などにも出てきますね。
では、玄昉はいったい誰の怨霊に殺されたかというと、
藤原広嗣(ひろつぐ)という人物と信じられました。

怨霊となった藤原広嗣
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さて、ここで少し当時の時代背景をふり返ってみましょう。
まず、藤原氏はご存知でしょう。天智天皇とともに「乙巳の変」を起こした
中臣鎌足が、死の直前に天皇より藤原朝臣姓を与えられ、
代々受けつがれて名門氏族となりました。摂関政治の時代に、
藤原道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の」と詠んだのは有名です。

ただ、この奈良時代、藤原氏は存亡の危機を迎えています。
鎌足の子が藤原不比等、さらにその子に、藤原4兄弟と言われる、
武智麻呂・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂がいます。
この4人は協力して、大きな権勢を持った皇族、長屋王の屋敷を包囲し
自害に追い込みました。729年の「長屋王の変」ですね。

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その後、藤原4兄弟はそれぞれ高い位に昇り、政治を行ったわけですが、
737年、4人ともが疫病で急死してしまいます。この死は都の人々に、
長屋王の祟りであると噂されました。疫病は天然痘で、735年から
日本で大流行していました。大仏開眼を行った聖武天皇の御代のことです。

聖武天皇
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この735年は大凶作もあり、日本中でおびただしい数の人々が死に、
国が滅ぶのではないかと言われたほどだったんです。
朝廷も疫病の害をまぬがれることができず、藤原4兄弟をはじめ、
たくさんの官人を失ったため、押し出される形で、橘諸兄(もろえ)
という人物が右大臣となって政権の中枢を握りました。

で、橘諸兄が登用したのが、遣唐使帰りの玄昉と吉備真備でした。
どちらも当時世界の最先端であった唐で学んだ知識を身につけ、
吉備真備は日本に陰陽道を持ち帰ったと言われますし、
また、玄昉も不可思議な術を使う、一種の超能力者と見られました。

橘諸兄
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さて、これに危機感を持ったのが、4兄弟の一人、藤原宇合の子である
藤原広嗣です。740年、広嗣は、大災厄の元凶は吉備真備と僧正・玄昉
のせいであるとして、二人を追放すべきとの上奏文を聖武天皇に
送りますが、橘諸兄はこれを謀反とみなします。

大宰少弐に左遷されていた広嗣は、隼人などの九州勢力1万人以上を集め、
大反乱を起こします。「藤原広嗣の乱」です。しかし、広嗣は敗れ、
五島列島まで敗走して、そこで処刑されます。一方、玄昉のほうですが、
聖武天皇が亡くなり、武智麻呂の子、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、
橘諸兄は権勢を失い、玄昉もまた筑紫の観世音寺別当に左遷されます。

そうして、観世音寺が完成した供養の場で、玄昉が経を唱えていると
突然空がかき曇り、大きな鬼の腕が現れて玄昉をつかみあげて消えました。
玄昉の手足と胴体はその場に落ち、首だけが1年後に、
奈良の興福寺の南大門にぽとりと落ちてきたとされ、
その地には、玄昉の頭塔(ずとう)がつくられたということです。

玄昉の頭塔とされる建造物  ピラミッドのようですが、

国家鎮護を願ったインド式仏塔と思われます
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人々は当然ながら、これは藤原広嗣の怨霊の祟りであると噂し、
広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に鏡神社が創建されます。
また、吉備真備も陰陽道で広嗣の霊を供養することになります。
長い物語になりましたが、やっと終わりが見えてきたようです。

さてさて、では玄昉について、どうしてこういった伝説ができたのか。
藤原4兄弟の命を奪った天然痘の大流行ですが、始まったのは玄昉が
帰国した735年からです。おそらく、玄昉らが天然痘を持ち込み、
大災害となったことを当時の人は疑っていたのではないかと思います。

これが、恐ろしい伝説が残った一因なんだろうと自分は考えてるんです。
また、わざわざ九州に左遷させられた玄昉は、現地で、
広嗣の残党に殺された可能性も考えるべきなのかもしれません。
ということで、今回はこのへんで。

藤原広嗣の怨霊を祀る唐津の鏡神社 広嗣の首から噴き出した血が
赤い鏡に見えたのでこの名がついたと伝承されます

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