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今回はこういうお題でいきます。日本史のお話です。
さて、田道間守(タジマモリ)は、記紀のどちらにも登場する人物で、
垂仁天皇の臣です。垂仁天皇は崇神天皇の子で第11代の天皇ですが、


実在性ははっきりしません。『日本書紀』には140歳で亡くなった
(『古事記』だと153歳)と出てきますので、怪しさ爆発なんですが、
垂仁天皇陵(宝来山古墳)とされる227mの大型前方後円墳はあります。

橘の実
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もし実在していたとすると、3世紀後半から4世紀にかけての治世と
考えられています。この垂仁天皇の晩年の即位90年、天皇は田道間守を

常世国へ遣わして、食べると不死になる非時香菓(ときじくのかぐのみ)を
探させます。田道間守は苦難の末にこれを持ち帰りますが、

そのときすでに天皇は亡くなっていました。これを知った田道間守は
嘆き悲しみ、半分を大后に捧げ、半分を天皇の陵の前に持っていき、
そこに供えて死んだとされます。『日本書紀』には自殺と書かれていますが、
『古事記』には死因はありません。まあねえ、これを読むかぎり、
神話伝承の類としか言いようがないですよね。

田道間守は、天日槍(アメノヒボコ)の四世孫で、天日槍は
朝鮮半島から渡ってきた新羅系の渡来人とされています。このあたり、
何か意味がありそうな気もしますが、よくわかりません。
上記のエピソードから、田道間守は忠臣の鏡とされ、
国民学校の唱歌にも歌われています。

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さて、どっから話していきましょうか。まず、田道間守が行った
「常世国(とこよのくに)」とは何か。これは日本神話に出てくる異界で、
海の彼方にある理想郷みたいな書かれ方をしており、この話のように
不老不死と結びつけて語られることが多いですね。また、神々がいる
天界である「高天原」とは違うようです。

「不老不死の秘薬を求めて人を派遣する」という話の構造は、
秦の始皇帝と徐福の話と似ています。ですから、これを中国系の
神話とみる説もありますし、また、南方系の話という説もあるんですが、
どっちとも定めがたいですね。複合的なものかもしれません。

田道間守の陪冢とされる土盛、整備されているのがわかります 後ろは宝来山古墳
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次に、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」とは何か。これは『日本書紀』に
橘(タチバナ)と出ていて、この話がもとになって、天皇家では
橘の木が尊重されるようになったと言われます。ただ、橘だとすれば
いろいろ不自然ですよね。おそらく橘は日本に自生していたと考えられ、
わざわざ探しに行く必然性がない気がします。

それと、橘の実はミカンに似てるんですが、そのまま食べるには
酸っぱすぎます。ですから、現在知られている橘とは違うんじゃないか
という説も昔からあります。中には、バナナだったという話まで
あるんですね。うーん、バナナだと南方系ですか。

さて、この田道間守、じつは『三国志』魏志倭人伝に登場する「難升米」
ではないかとする説があります。「難升米」は邪馬台国の女王卑弥呼が
魏に派遣した人物で、便宜的に「なんしょうまい」とか「なしめ」
などと読まれています。戦前の東洋史学者、内藤湖南が最初に
唱えたんだと思います。ちなみに湖南は邪馬台国畿内説です。

中国皇帝の会見
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難升米は、238年(239年説あり)、卑弥呼の遣いとして大陸に渡り、
朝鮮半島から魏の都、洛陽まで行って明帝と会見、卑弥呼への制書を
授けられます。難升米は何度か倭地と大陸を往復していたようで、
245年、魏から「黄幢 こうとん・こうどう」を授けられます。

これは戦いの目印になる「はたぼこ」のことで、黄色は魏王朝を表す色です。
陰陽五行説では、赤(火)の次が黄色(土)で、漢王朝が赤、
その次の王朝は黄がイメージカラーになるんですね。
「黄巾の乱」もここからきています。魏の最初の元号は「黄初」です。
黄幢を立てた軍は、魏の支配下にあることになります。

陰陽五行説の概念図
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この難升米が黄幢を受けた話が、長い年月の間に田道間守の逸話に
変化した・・・うーん、何とも評価のしようがないですよね。
根拠が出せるような話ではありません。ただ、もし田道間守が難升米で、
非時香菓が黄幢なのだとしたら、それは奈良県天理市柳本町にある
黒塚古墳で発見されているのかもしれません。

自分は邪馬台国畿内説で、黒塚古墳で出土した用途不明のU字型鉄製品は、
黄幢ではないかと考えています。これについては一本記事を書いてますので
くり返しませんが、興味を持たれた方はぜひ参照されてください。
ただ、黒塚古墳と宝来山古墳はけっこう離れてますし、
そもそも垂仁天皇は卑弥呼ではありませんね。

黄幢はおそらくこういうもの
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ちなみに、田道間守の墓とされるものは、宝来山古墳の周濠内の小島で、
発掘調査はされてないので、はっきりしたことはわかりません。
この近くに、奈良時代に左大臣まで昇った橘諸兄の塚があったとする
話もあり、それと何か関係があるのかもしれません。

さてさて、ということで、忠臣の鏡であるとともに謎の人、
田道間守について見てきましたが、古代は果物が菓子に通じるところから
現在は菓子の神・菓祖としても信仰され、各地の菓祖神社に
祀られているようです。では、今回はこのへんで。

京都 吉田神社の摂社 菓祖神社 御祭神は田道間守他
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