筥崎宮の放生会 お祭りになっています
今回はこういうお題でいきます。地味な日本史の内容になるので
スルーされたほうがいいかもしれません。さて、放生会は
「ほうじょうえ」と読み、「捕獲した魚や鳥獣を野に放し、
殺生を戒め、功徳を積む宗教儀式」とネット辞書に出てきます。
放生会で放されるのは、鳥、川魚、亀、海水魚とさまざまです。
放生会は、中国の仏教界で行われるようになったのが日本にも
伝わり、天武天皇が自身の病気平癒を願って、677年、
諸国へ詔を下して放生を行わさせたとなっています。
ただし、これはその時かぎりのもので、儀式として定着したのは、
724年、現大分県の宇佐神宮で行われたものが最初とされます。
で、この放生会、じつは日本史にとって大きな意味があったんですね。
まず、なぜこのときに放生会が行われたのか。8世紀初頭に起きた
「隼人の乱」の鎮魂のためです。隼人の乱については、前に
少しだけ書きましたが、もう一度おさらいしてみましょう。
放生される亀の浮世絵
7世紀、大和朝廷はちゃくちゃくと全国の支配を進めていましたが、
その支配に抵抗した人々も各地にいました。南九州の阿多・大隅
(現在の鹿児島県本土部分)に居住した隼人族もそのうちの
一つです。大和朝廷は律令制を全国に敷こうとしたんですが、
律令制の班田収授は稲作を中心とした制度で、
シラス土壌の広がる九州南部には合わなかったんですね。
隼人が大和朝廷に帰属したのは7世紀の終わり頃と考えられますが、
たびたび叛乱を起こしています。大きいのは713年にありましたが、
720年、大宰府から朝廷へ大隅国国司が隼人に殺されたという
報告が入ります。隼人側は数千人の兵を集め、
隼人のイメージ 顔に黥があったとも言われます
7ヶ所の城に立て籠もった。これに対し朝廷側は万葉歌人として
有名な大伴旅人を大将軍とし、九州各地から1万人以上の兵を集めて
進軍、城を次々と陥落させていきます。こう書くと戦国時代の
籠城戦をイメージされるかもしれませんが、この時代は、
城と言っても砦レベルのものです。
戦いは1年半にもわたりましたが、翌721年、隼人の全面敗北で
終わり、隼人側の戦死者と捕虜は、合わせて1400人と
伝えられています。この反乱の影響は大きく、
班田収授の法の適用は延期され、大和朝廷は隼人の地への
移民政策を進めていくことになります。
宇佐神宮 この下に邪馬台国の卑弥呼の墓があるという話も
さて、日本神話には南九州を舞台にしたものが多いですよね。
海幸彦・山幸彦の話がそうですし、その子孫である神武天皇は
南九州の日向を出発して東征を行い、大和の地に入って
初代天皇となります。つまり、天皇家の祖先は南九州から来た。
なぜそうなのか。それが事実だからだという意見もありますが、
自分は、隼人の乱勃発と同じ720年に完成した『日本書紀』に
南九州の神話が取り込まれたのは、「まつろわぬ隼人」を
懐柔するための朝廷側の配慮だと考えています。・・・これに
深入りすると終わらなくなるので、放生会の話を進めます。
神武東征のルート
この放生会を最初に行ったのが宇佐神宮ですが、じつは兵を出して
朝廷側について戦ってるんです。また、宇佐神宮の主祭神である
八幡神が「自ら隼人征伐に赴く」と託宣されたので、輿に乗せて
戦場まで運んだのが、日本におけるお神輿の始まりとも言われます。
このとき、宇佐神宮の主力になったのが辛島氏という渡来系の
氏族、また隼人側についた鹿児島神宮の勢力も同じ辛島氏。
同族内での争いという側面もあったんです。で、すべてが終わり、
亡くなった隼人族の鎮魂のために始めたのが放生会です。
宇佐神宮では巻貝を、鹿児島神宮では海水魚を放生するようです。
僧形八幡像
さて、この事件の影響は大きく2つあります。一つは神仏習合が
進んだこと。放生会の殺生戒は仏教の教義ですよね。
それが神社で行われたのは、八幡神があまりの殺生をしてしまった
ことを悔い、仏教に救いを求めたためとされます。これを契機として、
宇佐では神仏習合という先進的な思想が生まれたんです。
八幡神とは、一般的には応神天皇のこととされますが、
実体は定かではなく、九州土着の神や渡来系の神が入り混じった
複雑なものです。全国の武家から武運の神としての信仰を集め、
仏教のほうでは八幡大菩薩と称されます。本地垂迹説が広まると、
僧の姿で表されるようになり、これを「僧形八幡」と言います。
もう一つは、宇佐神宮が大和朝廷の中で大きな権威を持ったこと。
何を言いたいのかおわかりでしょう。後年に起きた道鏡事件です。
称徳天皇(孝謙天皇)の寵愛を受けた僧、弓削道鏡が769年、
天皇位を得ようとしたとき、和気清麻呂が宇佐神宮に赴いて、
「皇族でない者は天皇位にはつけない」という神託を持ち帰ります。
10円紙幣の和気清麻呂
これで天皇の不興を買った清麻呂は、別部穢麻呂と改名させられ
大隅国に流されます。やがて翌年、孝謙天皇が崩御すると、
道鏡は下野国の薬師寺別当へ左遷となり、日本史上の天皇家の
危機は回避されることになりました。戦前はこの功が評価されて、
和気清麻呂の10円紙幣なんかがあったんですよね。
さてさて、ということで、放生会が始まった周辺事情を
ざっと見てきましたが、日本古代史の、じつに重要な論点を含んだ
ものなんです。個人的に興味があり、このあたりのことは
かなり深く調べてるんですが、オカルトブログとしては概略だけに
とどめておきます。では、今回はこのへんで。