小学校3年のときの夏休みの話。仕事が忙しくて、めったに顔を
合わせることのできなかった父が、家族で温泉に行こうと言い出した。
一人っ子の俺と両親の3人で、木曜の夜から3泊で予約した山の温泉に行った。
車で山道をかなり上ったところに宿はあった。その2日目の午前、
旅館に弁当を頼み、それを持って渓流沿いの散歩道を3人で登った。
30分ばかり行くと吊り橋が架かっていた。幅は1mくらいしかなく、
下はかなり高さのある深い谷。吊り橋自体は、ワイヤーで何重にも
吊られており、横は転落防止用の網が張られていて、
故意によじ上りでもしないかぎり、危険はなさそうだった。
それでも揺れそうなんで、まず父が渡りその後に続いて母と俺とが
渡ったが、やはり揺れは大きかった。橋から10分ほど歩くと、


あずまやのある草地に出て、そこに敷物をしいて弁当を広げた。
何を食べたかもう覚えていないが、しばらくすると飽きてあちこち
駆け回り始めた。さっきの吊り橋が面白かったんで、
一本道を走って戻るとそう時間もかからずに谷まで出た。
さっきはこわごわとだったが、今度は手すりのロープから手を離し、
どんどんと足を踏みしめて、はるか下の水を見ながら渡っていった。
すると真ん中へんまできたとき、急に吊り橋がぐらぐらと揺れた。
驚いて顔を上げると向こう岸に父が立っていて、両手でワイヤーを持ち、
全力で揺さぶっていた。「えっ!」と思った。
父は広場にいるはずで、この橋を通らなければ向こうにはいけない・・・
父のいるほうに走って渡ろうとしたが、足が止まった。


こっちを見ている父の顔が普通じゃなく、怒っている表情に見えたからだ。
顔色は黒く、両目全体がさらに落ちくぼんで真っ黒になっていた。
父の姿をした化け物。そう思ってふり向いて逃げようとした。
そっちの岸には母がいた。目が吊り上がって、
口から泡を飛ばして何か叫んでいる。叫んでいる声は、
トンネル内で反響しているように割れて、意味のある言葉に聞こえない。
母も両手でワイヤーを持ち、足を踏ん張り体全体を使って橋を揺らしていた。
そっちにもいけない。もう一度振り返ると向こうはまだ父がいる。
父も叫んでいた。そしてその目は俺を見ていないことに気がついた。
反対側にいる母を見ているんだ。揺れが同調したのか

立っていられなくなり、俺は目をつぶって網にもたれ、


頭をかかえてうずくまった。どれくらい時間がたっただろうか・・・

揺れが収まったので目をあけると、もう父も母もいなくなっていた。
息をきらして広場までもどると、父は林の切れ目から下界の写真を
撮っており、母はザックに弁当の空をつめこんでいた。
吊り橋の話をしても、少し笑っただけで父も母もとりあってくれなかった。
それから3ヶ月後、両親は離婚した。母の浮気が原因だった。

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